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映画『こちらあみ子』(森井勇佑監督)〜大丈夫じゃない

先週から高熱で寝たきり生活です。そんな中でアマプラで観た作品。

非凡な作品であることはもう間違いない一方、大きな問題点があるようにも感じられ、正直、観終わったあとどうとらえてよいのかわからなくなりました。

よく映画評を参考にするライムスターの宇多丸さんが絶賛していたので、いつか観たいと思っていました。

内容は、あみ子という、おそらく発達障がいと思われる女の子の行動がきっかけで、家族が崩壊し、最後あみ子はひとり祖母の家に預けられて終わるという、かなり悲惨な物語です。

なお公式サイトなどでは、実際と全く異なる、無垢な少女のほのぼのストーリーのように紹介されており、映画自体の作りと相まって強い違和感があります。

私は宇多丸さんの映画評はいちばん信頼しているといっていいのですが、今回は大きく異なる感想を抱きました。

あみ子は、流産してうつ状態の養母に繰り返し死産した子のことを思い出させる言動をして、完全にうつ病に追い込みます。その結果、兄は非行に走って学校を退学、父は疲弊して育児放棄状態になってしまいます。
悲惨極まりないです。

しかしこの映画は、それをあみ子の元気いっぱいの演技と、のどかな田舎の風情、優しく温かな音楽などで、なんとなく、上の状況はあみ子があまりに無垢でまっすぐだからであり、あみ子はそれでも元気に生きていける、みたいな明るい雰囲気で描いています。

象徴的なのはラストシーンです。
なんの支援も受けられずに田舎の祖母の家にひとり置いていかれたあみ子が、早朝の海辺で足を水に浸していると、それを見かけた通りすがりの住民が、まだ水が冷たかろうと声をかけたのに対し、あみ子が明るく「大丈夫じゃ!」と叫んで終わる。

もう思わず「いや全然大丈夫じゃないから!!」と突っ込みたくなりました。

この映画は原作にかなり忠実らしいので、映画の作り手が観客に伝えたいことは、物語自体よりも演出から読み取りやすいと思います。
そして、その「なんとなく前向き」の演出に、それでいいのかと、どうしても感じてしまいます。

あみ子の置かれた状況は悲惨です。
なのに映画が明るいのは、もしかしたら監督は、「あみ子自身は悲惨だと感じてはいない、それは大人の決めつけだ。あみ子は自分で力強く生きていける」と言いたかったのかもしれません。

しかし、周囲の状況を理解できないことこそ発達障がいの苦しみのもとなのであって、本人がその不幸を認識すらできないならそれで幸せ、では絶対にないと思うのです。

また、あみ子の問題を、「子どもの頃はみんなそうだった」みたいに、定型発達者の成長過程と地続きであるかのような共感を促す作りは危険だと思います。

「特別なことじゃないよ、子どもなんてみんなそういうところあるよ」とすることで、発達障がいに大人がきちんと対応しない危険につながる気がするのです。
そして、まさにあみ子の状況もそれだと思います。

映画の公式サイトでは、こんな紹介文があります。

いつも会話は一方通行で得体の知れないさびしさを抱えながらも、まっすぐに生きるあみ子の姿は、常識や固定概念に縛られ、生きづらさを感じている現代の私たちにとって、かつて自分が見ていたはずの世界を呼び覚ます。観た人それぞれがあみ子に共鳴し、いつの間にかあみ子と同化している感覚を味わえる映画がここに誕生した。

いや、そういう問題じゃないと言いたくなるのですが・・・。

内容に添っていないこうした紹介文も、いつもなら「宣伝のためには仕方ないんだろうな」と同情するのですが、この作品では、作り手はまさにこの紹介文のように考えているのではないか、と感じてしまいます。

この映画は非凡な、間違いなく「すごい映画」です。たぶん、映画としては完璧に近いという気がします。宇多丸さんの評を読むといっそうそれがわかります。
これが監督の長編デビュー作というのだから本当にすごい。

ただ、考えれば考えるほど、このようなシビアなテーマも、作り手にとっては結局は「すごい映画」を作るための素材に過ぎなかったのか?という疑問にとらわれてしまいます。

監督は本当のところ、どのような物語として原作を受け止めたのでしょうか。
それが結局、よくわからないままでした。

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