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今村夏子著『こちらあみ子』
先日、映画『こちらあみ子』を観て考えたことを投稿しました。
映画では「この物語はこういう描き方でよかったのか?」という疑問を感じました。そこで、原作を読みました。
映画は本書をかなり忠実になぞっていて、描かれている出来事としては、最初と最後を除きほぼ同じです。
ただ、小説は映画よりもさらにあみ子から見た体験の描写に徹しており、作者自身の考えはもちろん、あみ子の心情描写もほとんどありません。
また、映画にあった「おばけ」のファンタジックな描写はありません。
そのため、印象は映画よりずっと静的で、読者はあみ子の孤独を強く感じると思います。少なくとも、映画の「元気で明るい無垢な女の子」のイメージではないと思います。
私自身は、根拠なく前向きに味付けされた映画より、本書のほうが受け入れやすいと感じました。
広島弁の会話も、映画よりいっそう自然で、かみ合わないにもかかわらずテンポのよい会話の描写に、うまいなあと感心してしまいました。
ただ、映画とは別の疑問も抱きました。
それは、著者があみ子の物語をどうとらえているのかわからないことです。
映画では、森井監督はあみ子の存在をとてもポジティブにとらえていて、作品もそれにそった色づけがされています。
その是非はともかく、言いたいことは伝わります。
でも小説では、著者があみ子をどうとらえているのか、いっそうわからない。
今回、この『こちらあみ子』と、文庫に同録の『ピクニック』、それと別の長編『星の子』も読みました。前者は虚言癖のある女性とその周囲の人、後者は新興宗教のいわゆる二世信者とその家族を描いた小説です。
そしていずれも、スタイルが共通しています。
描写について登場人物の主観に徹し、読者が得る情報を強く制限することで、読者は「どこかおかしい」と違和感を抱き始めます。
その違和感と不穏な感じ、登場人物には当たり前でも読者には当たり前でない、その差異が物語を進める動力になる仕組みです。
でもどの小説でも、それにより著者自身は何が言いたいのかは、よくわからないのです。あえて言わないのが作者の姿勢なのかもしれません。
そうだとしても、少なくとも作者がその題材を選んだ理由はあるはずです。それすら、いまひとつわからない。
『星の子』では、著者は「この家族は壊れてなんかいない」ということを描きたかったそうです(文庫版での小川洋子との対談)。
しかしそれを書くなら、あまりに内容に「悩み」がなさすぎるのではないか。
その信仰が周囲からは少し奇異に見えたとしても、そういう家族のかたちもあるのだと言いたいのかもしれません。
でも、それはいわば当たり前のことであって、実際にこれだけ宗教二世の問題が深刻になっている状況で、そんなふんわりした話を書くことにどんな意味があるのだろう?著者は何を訴えたいのだろう?
と感じてしまうのです。
そうして考えるうち、私が懸念したのは、実は著者はこうした問題にほんとうはあまり関心はなく、もっぱら、内部の体験と外部からの評価が食い違う状況という、著者のスタイルを適用しやすい素材として、こうした問題を選択しているだけなのではないか、ということです。
もしかして、このスタイルはデビュー作の『こちらあみ子』ですでにあまりに完成し、成功してしまったため、著者はその外に出ることが難しくなってしまったのではないかとすら思ってしまいます。
でも、ある作家についてこんなに考えたのは久しぶりで、読ませる力のある人であることは間違いないので、気になります。
今度は芥川賞の『むらさきのスカートの女』も読んでみたいと思います。