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本当の望みはとてもシンプル
普通に食べたい。
これが私の本当の望み。
これまで色んな健康食情報を目にしては実践してきた。
○○だけ食べる、○○は絶対に食べてはいけない。
そんな情報を見て、頭で考えて食べるようになった。
本当はこれが食べたいけど、これは体に悪影響を及ぼすって言ってたからこれじゃなくて、体に良いと言われていたこっちにしようとか。
感覚よりも情報優先。
自分が感じたことよりも、世間的に良いと言われていることの方が正しい。
「私は間違っていて、世間が正しい」という前提を生きていた。
この前提を生きているとどうなるか。
感覚的に欲しいと思ったものと、世間で良いとされているものが異なった時、何の疑いもなく真っ先に自分の感覚を否定する。
なぜなら「私は間違っている」から。
「私は間違っている」ことの根拠なんて何もないのに。
さらに、「世間の情報が正しい」ことの根拠も全くないのに。
どちらも根拠のないこと。
それでも自分の感覚を否定する癖がついていた。
自分の感覚を信じられなかった。
感覚を抑えて正しいとされている方を選択することが立派なことだと思い込んでいた。
自分の感覚よりも、世間的に正しいとされている方を選択することで正しい人間になれると思っていた。理想的な人間になれると思っていた。
そうやって長いこと自分の感覚を封じて正しいとされているものを選択して食事をしていた。
食べるものの選択基準は自分が食べたいと思うかではなく、体に良いとされているかどうかだった。
本当に食べたいと思っているものは食べられず、栄養的に優れているとか、腸内環境に良いとか、外から取り入れた情報を基に食べるものを選んでいた。
それが自分のためだと思っていたけれど、本当はこれが食べたかったという思いは心の奥深くに溜め込まれていたようだ。
だから食べてもなぜか満たされない。
物理的にお腹いっぱいになったとしても、心が満たされていなかったから。
友達や家族と食事に行った時、「あの子が頼んだ○○美味しそうだな、食べたいな」と思っても「いや、それは油がたっぷりで太っちゃうよ」と食べたい思いを打ち消して、脳内データを検索し、より健康的だとされている方を選ぶ。
それが出来たとき、私は健康的な選択ができたと満足した。
でもそれは見せかけの満足で、私の心は「また否定された、また食べたいものを食べられなかった」と拗ねていた。
何とか頭で自分は満足してるんだ、この選択は正しかったんだと言い聞かせて信じ込ませていた。
だから本当は心が満足していない、拗ねていることに気づかない。
どこか満たされない感覚の理由はここにあったのだ。
そんな選択の仕方をしていたことに気づいた私は、自分自身を頭で考えることから解放することにした。
たくさん取り込んだ食に関する様々な健康情報をすべてゼロにして。
頭の中を空っぽにして、何の情報もない中で私は何を食べたいと思うか。
それだけに集中した。
最初は、そして今も少しこわい。自分の感覚で選択することが。
選択しようとする度にこれで良いのだろうか、これで合っているだろうかと様子をうかがっている自分がいる。
誰かや何かの許可が得られてはじめてそれを選んで良いと自分に許可が出せるようなつくりになっていた。
でも、自分の選択に誰かや何かの許可は必要ない。
自分がこれを良いと思った、それだけで選んで良いのだ。
私は間違えたくなくて、考えて考えて考えて考え、これなら正解だろうというものを探して選択していたようだ。
そうやって選択したものは、空中にただぽかんと漂っている中身のないもののよう。
自分で選んだものなのに、自分に一番ささっていない。
周りにも特別ささるようなものではない。
考えて考えて考えて考えた結果、自分に最も響かない空虚な選択になる。
そんなむなしいことがあるだろうか。
考えるにもたくさんのエネルギーを使う。
たくさんのエネルギーを費やして自分が虚しくなるのなら、もっとわくわくすることにエネルギーを使いたいと思った。
その結果、「普通に食べたい」に辿り着いた。
何も計算することなく、純粋に食べることを楽しみたいと思った。
私の望みはこんなにもシンプルで分かりやすいものであった。
自分で自分を複雑にがんじがらめにしてしまいやすいのかもしれない。
長いこと自分をがんじがらめにして生きてきた私は少しずつその縛りをゆるめている。その途中。
これからはこの素直で純粋な望みを大切にして生きていたい。