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少しずつ褪せていけばいい

夏。

家族でテレビを観ている。

オリンピック女子の競技。

日本は良い感じだ。

がんばれ、がんばれと応援する。

ちょっとしたタイミングで、母がつぶやいた。

「おっぱいが、ゆさゆさ揺れとる」




私の頭の中のVHSビデオデッキに1本の録画テープが入り、再生ボタンが押された。

このビデオテープは再生しすぎて、一部擦り切れているようだ。

時は1996年。

私が小学校高学年のときの様子が録画されている。

第二次性徴を迎えた私は少しずつ体つきが変わってきていて、自分が女性であることを強く意識し、気まずさと恥ずかしさを抱えている。

胸のふくらみにはスポーツブラをあてがい、その居心地の悪さに憂鬱気分、そしてそのふくらみを隠そうと、体は少し猫背気味だ。


冬。

マラソン大会。

校内から学校の外を回って帰って来るコースを走る。

たくさんの母親たちが応援に駆けつけている。

私は上下に揺れる胸に肩への重みを感じながら、ゆっくりと走っていた。

校門付近に母がいた。

母は同級生の母親たちに交じっている。

がんばれー

ファイトー

そんな声援が聞こえる中、母は私に向かって声をかけた。

大きな声量で。

「おっぱいが揺れとるよー!」






???????


がんばれ! 

じゃなくて、

何故におっぱい?


私はとまどう。

次に私の目に入った光景は、母が周りの同級生の母親たちに囲まれて、

「あんた、何てこと言ってんのよ!!」と怒られている様子だった。

それを横目に見ながら私は校門を出て、走った。

母の姿はどんどん後ろへ去って行く。


学校の外を走ってきて、学校内に戻ってきた。

私はそのままの足で、ゴールではなく、保健室へ直行した。

保健室内、校舎内に人の気配はない。

シンと静まり返った消毒液の匂いのする部屋の長椅子に腰掛け、私は火照った体を冷やしながら、冷たい床を見つめ続けた。



おっぱいが揺れとるよ。

大きな声で言われて恥ずかしかった。

母は、あの言葉を声援だと思っていたのだろうか。

いや多分、応援だとか、そうじゃないとか、そういう話じゃない。

見た目にそうだったから、そう言っただけなんだ。

実際、私の胸はゆっさゆっさと揺れていたから、しょうがないのか。

もやもやがおっぱいに広がる。


そして。

何より私が情けなく思ったのは、同級生の母親たちに母がめっちゃ怒られているという状況だった。

なんで、私の母は、こうなんだろう。

周りのおばちゃんたちとは、ちょっと感覚がズレているのではないか、前々から薄々は感じていた。

でも、はっきりと言葉にして「私の母は少し変だ」と自身に認識させることはなかった。

今日。

あの様子を見て、ああ、やっぱりそうなんだな。と確信した。

私のお尻はしばらくの間、長椅子から離れなかった。お尻の下だけが暖かかった。

マラソン大会の私の記録は、棄権になった。




時は現在。

夏。

家族でテレビを観ている。

オリンピック女子の競技。

日本は良い感じ。

がんばれ、がんばれと応援する。

「おっぱいが、ゆさゆさ揺れとる」

「かあちゃんは、どうしてもおっぱいに目が行くんやね」

「そうねえ... なんでじゃろうねえ」

「私が小学生のときも、でっかい声でおっぱいが揺れとるよーって言ったんよ。あれはびっくりしたわ笑。周りのおばちゃんたちに、かあちゃんがめっちゃ怒られとったの、覚えとるわあ」

「そんなことあった? 覚えてないわー。私は気にしてないわよ」


気にしていないわよ。

何に対してどう気にしていないのか少し引っかかったが、深追いはしなかった。


ビデオデッキから、ビデオがにゅーんと出てきた。

今まで何度も何度も再生した記憶。

再生するたび少しずつ上書き録画されていき、今では笑い話にできる色褪せた思い出。

私はそのビデオを、水で染みだらけになった古い段ボールの中にそっと戻して、ガムテープで封をした。

いつかの引っ越しの際に、廃品として捨てる。かもしれないし、そうでないかもしれない。

ビデオデッキ自体が無くなり、

再生すらできなくなるのが先かもしれない。