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それぞれの人生

日本には昔、
邪馬台国という国が存在したらしい。

しかしながら、その国がどこにあったのか、
今となっては明確には分からない。

その国で暮らす人が、
どんな思いを抱えて生きていたのか、
今となっては分からない。

ひとりひとり、
今の僕たちと同じように、
真剣に悩み、考えて、
必死に生きていたと思う。

しかしながら、今の僕たちは、
その人達がどんな思いで生きていたか、
気にもとめない。

今と昔では、
あまりにも時間が流れすぎたのである。


僕は、自分のおばあちゃんの、
そのまたおばあちゃんが、
どのような気持ちで生きていたのか、
分からない。

よほどの家柄でもない限り、
大抵の人はひいひいおばあちゃんが、
どのような気持ちで生きていたのか、
分からないと思う。

ひとりひとり、
今の僕たちと同じように、
真剣に悩み、考えて、
必死に生きていたと思う。

しかしながら、今の僕たちは、
その人達がどんな思いで生きていたか、
気にもとめない。

昔といっても、100年前には、
普通に生きていておかしくない親族である。

それでも、誰も気にしなくなる。

そう思ったとき、人の一生って、
なんてはかないんだと思った。

僕がいま真剣に考えていることも、
あなたがいま目標にして頑張っていることも、
神様が少し時計を進めれば、
フッと消えて無くなる。

それなら、
僕たちの夢や、目標、
大切な人を大事に思う気持ち、
成長しようとする意欲、
困っている人を助けたいと思う気持ち、
これらを真剣に考える事は
無意味なことなのだろうか。

ひとりひとり、
真剣に悩み、考えて、
必死に生きようとすることは
無意味なことなのだろうか。


僕たちはいつか死ぬ。
考えるだけで悲しくなってくるが、
それは目を背けてもいずれやってくる、
残酷な事実である。

いつか直面する、事実である。

僕たちは、その変えられない事実の中で、
時には不安の中をもがきながら、
時には誰かと喜びを分かち合いながら、
生きている。

本当は僕たちが生きていることに、
意味なんて無いのかもしれない。

少なくとも、客観的な時の流れ、
宇宙視点、神様視点からすると、
ほとんど意味は無いだろう。



ただし、僕たちは、
宇宙でも無いし、神でもない。

宇宙や神や、時の流れからすると、
僕たちの人生は無意味かもしれないが、
僕たちにとっては、
それがすべてであり、
すべて意味のある人生である。

要するに、
「人生は無意味だ」というのは、

・他の人にどう見られるか、
・周りから見た自分はどうか、

といった、他人の評価軸だけで考える人の言葉である。


どこまでいっても、
今生きているのは僕の人生であり、
あなたの人生である。

結局のところ、
自分が納得しているか
がすべてである。

今頑張っていることに納得すれば、
人生のある部分では満足するし、
上手くいかずに納得出来なければ、
人生のある部分では後悔もするだろう。

僕たちが死ぬとき、人生に対して、
いくらかは納得して満足するだろうし、
いくらかは納得できず後悔もするだろう。

だから、自分が納得するように生きればいい。

自分の大切な人が納得できるような人生になるように、助けてあげればいい。

僕も、あなたも、
そしてあなたの大切な人も、
少しでも満足できるように、
真剣に悩み、考えて、
必死に生きていい。

つかの間の人生だけど、ひとりひとり、
意味のある人生を送っている。

邪馬台国の人達も、
ひいひいおばあちゃん達も、
自分にとっては意味しかない人生を送った。

僕たちも、
自分にとっては意味しかない人生をもがきながら送っている。

大切な人の人生は一瞬かもしれない。
手遅れになる前に「ありがとう」を贈ろう。
後悔しないように。

みんなの人生、幸運を祈る!


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