川の向こう側~「つみびと」を読んで~
単行本が上梓されてから、気になっていたこの本。
つみびと (中公文庫 や 65-3) https://www.amazon.co.jp/dp/4122071178/ref=cm_sw_r_apan_glt_i_FJXDXBGRFPS1X2TBZ6Y1
ある日の仕事帰り、書店の入口で平積みになっていた文庫本を手に取り、覚悟を決めて購入した。
これはフィクションだけど、実際の事件から着想されている。
…ここからしばらく、文章を書いたけど消した。
なんだか、人の命が失われた事件を、自分の表現したいもののために利用しているように思えたから。
あの事件があった頃は「どうしたらこんな事件が起きるのを止められるんだろう。私に何か、できることはないか」と考えていた。
実際に児童虐待などに関する活動をされている方と知り合ったり、直接お会いしなくても「SNSで繋がっておくといいよ」とご紹介をいただいた方にメッセージを送って繋がったりした。
だからこそ、この本を読むのが怖かったし、読んだ以上は何か発信したかった。
でも、語る言葉が見つからない。
とは言え、この本はフィクションだ。
実際に失われた命と切り離して考えてみよう…。
まず、この作品の構成は3つの視点からなる。
<母・琴音><娘・蓮音>そして<小さき者たち>。
琴音の娘である蓮音が、小さき者たち=二人の幼児を真夏のマンションに放置して死なせてしまう。
蓮音が育児放棄するまでに追い詰められていく姿、エアコンも切られ食糧どころか水も尽きて、衰弱していく子供たちが描かれるのに対し、母・琴音は過酷な生育歴や、蓮音とその弟、妹を捨てたところから、周囲の人々に助けられ変わっていく。
確かに琴音自身も、蓮音を世間から「鬼母」と呼ばれるようにしたのは自分だと思い、何故こうなったのかを考えている。
だが、読んでいる私からすれば「何自分だけ救われてんだよ」と苛立ちを覚える。
蓮音は母に捨てられた後、弟、妹の世話などを“がんばる”と決め、がんばってきた。
離婚してシングルマザーになっても、周囲に助けを求めず、がんばり続けた挙げ句、子供たちが待っている自宅に帰らず、最悪の結果になった。
その前に助けを求めていたら。或いは、求められずとも、子供たちの父親や義実家の人々、蓮音の父など、誰かが救い出していれば。
なのに、その救いの手は蓮音の心に届かず、蓮音は孤立していく。
時に蜘蛛の糸のような頼りない救いの手が延べられても、振りほどいてしまう“プライド”も、わからなくはない。
いっそのこと、琴音のように逃げ出していれば良かったのに。
ある意味“がんばる”前に子供たちを置いて逃げ出した琴音と、がんばりすぎた結果、子供たちの命を奪った蓮音、どちらの罪が重いだろう。
蓮音の収監されている刑務所の傍らには、川が流れている。
地元の人たちは、自分たちとは別世界のものとして、対岸から刑務所を見る。
あなたは、私は、川のどちら側にいるだろう。
今は対岸にいるとしても、生涯その川を渡ることはないと言いきれるだろうか。
蓮音を助けなかった人たちのように、誰かを川向こうに追いやってはいないだろうか?
また、対岸で踏ん張り続けるために、川を渡ってしまった人を、SNSで口さがなく罵っているかもしれない。
私が児童虐待に関心があるのも、自身の生育歴の中に、親が川を渡ることになっていたかもしれない、このまま自分が子供を持ったら川を渡ることになるかもしれない、と恐れるようなエピソードがあるからだ。
子供が犠牲になる事件は、昨今も立て続けに起きている。
そんなニュースに触れたときに、上のようなことを考えれば、批判したい気持ちが湧いてきても、せめて公に発言するのは控えるのではないだろうか。
かと言って、擁護や同調が過ぎるのもまた、違うような気がする。
適度な距離感が難しくはあるけれど、川向こうは決して別世界などではないことは、頭の片隅にだけでも置いておきたい。