人間というもの: 哲学を役に立たせる

学問は探究する値打ちがあるから学問といわれる。探究する値打ちがないものは学問とはいえないのだ。

哲学はどうか。多くの人は「哲学なんて役に立たない」と感じている。それはそうだろう。哲学は何もしてくれないのだ。

それを言うなら医学も同じだ。
解剖学や生理学を学んだからといって役に立つとはいえない。そんなバカなと思うだろうが間違いない。

国家試験を持つ医師でも筋肉や骨を正確に触れない人ならいくらでもいる。病院でも見かけることがある。何やってんだろうと思うが珍しいことでもないのだ。

「痛みは順応しない」と医学書で学んで何かの役に立つだろうか。絶望するには役に立つ。
神経系は内部環境、外部環境の情報を処理していると言われてもなんの役にも立たないのだ。

学生の頃、解剖学を教わった医学部卒の講師は「私は解剖学や生理学のことは何でも教えることは出来ても治すことは全く出来ない、やったこともない」と言われた。責めてるわけじゃない。

哲学者に「世界は成立していることがらの総体である」と言われてもなんの役にも立ちはしない。

哲学を教える人はいても、それをどう使うかを教える人はいないのだ。

医学そのものは役に立たないかもしれないが、医療を行うには必須となる。使ってこそ役に立つと言えるのだ。

哲学は知識を覚えても役には立たないが、私のように考えることを考える際に役に立つ。

日々、知識を詰め込んで「思っているだけ」ではなんの役にも立たない。
考えて選択して行動するには「どう考えるか」は必須であることから考える技術は学んだ方がいい。

それには哲学的な思考が役に立つ。知識を覚えるのではなくどう使うかを学ぶのだ。

哲学書なんて何冊読んでも役に立たない。読んだ私の感想だ。
しかし、哲学書を読んで何が変わったのかを問われれば考え方が変わったと言える。
「コイツ訳の分からんことばかり言ってるわ」「だから何なん?」「そんなこと誰も望んでないで」といったことがわかった。
私ならこう考えるのにということもわかった。

「痛みは順応しない」というなら痛みを取り除くためにはあらゆることをしなくてはならないと考え、「世界は成立していることがらの総体だ」というなら真理を求める必然を受け入れることができる。

哲学自体は役に立たないが、実践に移す際の引き出しの一つくらいにはなる。
「実践すれば」という但し書きがつくのはどの学問も同じじゃないかと思うのだ。

包丁をたくさん持っているだけでは何の役にも立たないが料理には必須だ。よって、使えば料理に包丁は役に立つ。使わない包丁は役に立たない。