人間というもの: 自己憐憫の哲学

人間は自分を憐れみ助けを待つ生き物である。孤独、生きづらさ、苦悩、寄り添う、他にもいろいろあるこれらのワードは自己憐憫を装う気持ちが含まれている。自分を憐れんでいるように装うのだ。

その自分を誰かが助けてくれるのではないかという期待も持っているだろう。
現実のほとんどは憐れむほどのことでもないし、悲惨でもない。
青年期によくある自己愛でもある。自分がどう見られているかを過剰に意識する年代のせいなのだ。早く脱出するべきだと思う。

現実は、それほど生きづらくもなく、苦悩というほどの経験もなく、寄り添われることを必要としないものだ。何とかなるものばかりである。

期待通りの人生でないと自己憐憫に陥りがちだが、期待通りに生きるには知恵や努力や一番は時間がいる。

結果を焦るあまり世を拗ねて生きないようにした方がいい。
誰かが今の自分をわかってくれて、助けてもしてくれ、共感もしてくれて、共に生きていくといったドラマチックなことを望んではならない。

自分がやらないことは他人もやらないのだ。

そんなことよりも、他人からの憐憫を受けないようにしなければならない。
孤立、厄介人、拒絶、病、痴呆、錯乱、不潔、などは他人からも哀れみを受けながら嫌われる。

「自分であること」を追い求めながら「自分の問題は人間の問題でもある」と思い定めていけば、世の中にあるほとんどの煩悶は消えていく。

説教くさくなったが、青くさかった若造の頃の私に叱咤激励したくなるような記事をnoteで見かけてちょっと言いたくなった。