哲学: 相対的なものと絶対的なもの
「唯一の世界を多と解することもできるし、多くの世界を一と解することもできる。一か多かは解し方によるのである。」
ネルソン.グッドマンはそういう。
難しい哲学の話は置いといて、私たちが生きる生活圏の中で「自分は間違っていない!」と言う人は多い。
そして「だってね!」とはっきりとその理由もあるようだ。
さらに、他の人も「自分は間違っていない!」と言い、「だってね」と明確に反論することもできる。
どれが本当なのだろう。おそらくどれも正しいのだろう。
「ただひとつの世界があるとしても、それら全てを集めたものはひとつである。」という見方ができるからだ。
「数多くの異なった世界があるという事実にはほとんど議論の余地はない」
という前提を受け入れたうえで、このことを「考え方」や「生き方」「意見」に置き換えてみる。
そうなると、
「唯一の世界が存在しないように、さまざまな世界から成る唯一の世界も存在しないからである。」
という意見が正しいという気にさせられるのだ。
しかし、この意見を現実に実践に使おうとすると、「お互い様」を理解し実践しないと通用しない。
絶対的な意見に対し、相対的な考え方で対処することは可能のように思えるがそれは難しい。
相対的な意見が、「人それぞれやん!」と絶対的な意見に変化し闘争の源にもなるからだ。
また、それぞれの人が「私は間違っていない!」と言い張ると「あなた方は相対主義なのですか?」と質問しなくてはならなくなるのだ。
「一か多かは解し方によるのだ」ということが真実となり、それを乗り越えるのは心理学ではなく哲学の仕事になる。
哲学の思考を使えば、
「一つの思想の意義を明らかにするには、その思想がいかなる行為を生み出すに適しているか決定しさえすればよい」
という意見を用いて、自分の生き方を示すだけでいい。それは絶対的でもあり相対的でもあるだろう。
ぼくにはこの考え方が生きるうえで、究極的で最も強く、心理学的にも哲学的にも揺らぎ難い思考なのだと思っている。
悩むことも迷うことも何もないのだ。「解し方による」からだ。
人間世界も関係で出来ていることを考えれば、それは普通のことなのではないだろうか。
難しいことをいっているわけではなく、難しいことを考えたり言ったりする人が多いので防御したいのである。
普通から逸脱したものは、相手をするとしんどいものだ。
逃げたいのではなく自分を支えるものがいる。