生きることと努力
人間の性質
発明家でもあり未来学者でもあるレイ.カーツワイルは「人間という種は、生まれながらにして、物理的及び精神的な力が及ぶ範囲を、その時々の限界を超えて広げようとするものだ、という性質だ」という。
このことが真実だとしたら、私たちが普段経験する不満や愚痴、悩みの起源が人間の性質にあることがわかる。
人間の性質は、存続と繁殖だけでは満足しないのだ。
よりよく生きようとする人間
カーツワイルはこうもいう。
「生物の進化においては、最大の問題は常に生き延びることだった」
しかし、通常、私たちが生きる上で、そんなことを考えたりはしない。
生物進化の問題と日々の生活を繰り返していくこととは別のことだからだ。
ドーキンスのいう「利己的な遺伝子」の働きを別にして、考えることは「よりよく生きること」、頭に浮かぶのはそのことだ。
他人を出し抜き、自分の利益を最大限にするために、どうすればいいか、どの人と付き合えばいいか、どの言葉を使えばいいか、そういったことを意識的にも無意識的にも考えている。
それは遺伝子の存続ではなく、それが全くの無関係ではないにしても「快適に生きたい」という欲求に支配されて生きる。
そういったことを制御するのに「哲学」は使えるかもしれない。
しかし、制御することは、「よりよく生きること」に貢献しないのではないかと思われることで、哲学への興味は薄れていく。
カーツワイルの観る人間は、
「人間の知能に従来からある長所の1つにパターン認識なる恐るべき能力がある」
「人間は経験をもとに洞察を働かせ、原理を推測することで新しい知識を学習する力を持っている」
というが、このことがもし本当なら、人間が「保存」と「存続」だけを目的にしているのではないことがわかる。
哲学の役割
本能を制御する努力によって、動物としての人間ではなく、理性を使った「人間」が生まれることも可能ではないかと考えられないだろうか。
R ドーキンスは、
「人間の神経系が実際には決定論を忘れてしまえるくらいに、そしてあたかも自由意志を持っているかのようにふるまえるくらいに複雑であることに同意する」
という。
これは脳の可塑性という働きによる変化があるからだ。
脳の可塑性を信頼して働かせることができれば、決定論を覆すことができるかもしれない。
それには努力が不可欠だ。そして、覆すことができないとすれば、その原因は「時間」だ。
参考文献:
R.ドーキンス 延長された表現型 紀伊国屋書店
レイ.カーツワイル ポストヒューマン誕生 NHK出版