答えを探すのではなく従う
人間は考える生き物だ。考えることは正常だということだ。
考えることが求めているのは、状況の把握だろう。安全か危険か、利益があるのかないのか、正しいか間違っているかのようなことだ。
不安は考えることの動機になりやすい。それゆえ正常だ。ただ、間違うのは、不安を取り除くための答えを見つけて、その後に行動に移そうとすることだ。これは間違う。行動しながら考えるべきだからだ。
考えるということは正常なんだからそれに従うことだ。答えを求めることが正常なのではなく、考えることが正常なのだということをはっきりしておかなければならない。
生きていく上での明確な答えなんてない。あると思えたものは、またすぐに消える。それをまた追う。また逃げる。捕まえることはできないだろう。
わかっているのは「死」だ。死ぬことは明確な答えであり、生きる上で正常なのだ。それまでは考え続けることなのだ。答えを見つけるのではなく、考えることだけなのだ。
ぼくの知りたいのは、何が正しいかではなく、何が健常かということだ。
人間は考えることが正常であるように、行動することも正常だ。
答えを見つけたがる人は、不安を取り除くという本能に根ざしたものだろう。安全だと判断してから動く。または利益があると判断してから動く。
しかし、それは幻想だ。
もし、それが食料の奪い合いならどうなる。安全だとわかってから獲りに行っても何もない。先ずやるべきは獲ることだ。吟味はそれからだ。
どうしたら食糧が手に入るだろうと考えることは正常だが、考えているだけで動かないのは正常ではないのだ。
生きることも同じで、先ず動いて、その後に考えてまた動く。それが正常だ。考えることに従えばいいだけだ。
しかし、答えを出せとはいっていないのだ。
理性と本能がごちゃ混ぜになった状態にならないようにしたい。
動かないで考えるだけの人からみると、ぼくは間違っている人間になるだろう。
しかし、動きながら考えても無事に生きていけるという一例だという答えを示せてはいるはずだ。
こう考えることは正常であり「健常」でもあると思っているがどうだろう。