なぜ私は鶴屋さんに惹かれるのか
ネットで【誰でもできるヒロインの作り方】というのを発見した。
なんでも、脳内に貯蔵された数人の好きなキャラクターの特徴などを書き出していき、そこから気に入った要素だけを集めてみる。できたキャラクターの人生を想像して名前をつけて完成……というものだった。自分の作品に出てくるヒロインに魅力がまったくないので、実際にやってみた。
アイマスの音無小鳥、ハルヒの鶴屋さん、ローゼンメイデンの金糸雀、ゼロの使い魔のアンリエッタ、とらドラの川嶋亜美、氷菓の入須先輩……
色々書き出してみて自分で気がついたのだが、妙に緑髪のキャラが多いな、という印象だった。なるほど、俺は緑髪のキャラが好きだったのか……と次回作のヒロインのイメージカラーを緑にしようとした矢先、友人と上記の話になり、先程提示したキャラを見せた。すると友人は、
「俯瞰キャラ多くない?」
私はそこでハッとした。確かに上げたキャラクターは最前線から一歩引いたところで後ろから眺めているという印象が強かったのに気がついたのだ。結局彼とはこの話で一晩中語ってしまったのだが、これはいいとして……
正直ここでキャラクター論とかそういうことをしたいわけではない。タイトルに戻ろう。なぜ私は鶴屋さんに惹かれるのか。
鶴屋さんはハルヒの中では異端の存在だ。主人公とその一味が大騒ぎを起こす中、それを傍からずっと見ている。その中心に入ることもできるけど、あえてそれをしない、と言った書き方がされているのだ。
初めて涼宮ハルヒの憂鬱を読んだ時、私は高校生だったが、この行動が理解できなかった。なぜ楽しいはずの大騒ぎの中心に入らず、それを眺めているだけでいいのか。自分が主人公になりたくないのか、と。
人は誰しも主人公になりたいだろう。自分が決めた行動で、なにか物事が進んでいく。よく人はそれぞれ自分の物語の主人公であるというが、他人の物語に干渉しながら主たる役割をもつことは誰もが求めるだろう。
しかしこの「主人公にならなくていい」という考え方に至ること、これが高校生から大学生、そして社会人になるタイミングで必須の壁なのだな、と感じた。勝ちたくない人間なんていないのは当たり前だが、仮に負けたときに「私は負けた」と認めることの方がどれほど勇気がいるか。この勇気を持っていること、「私は負けた」「主人公じゃなくていい」どれだけの人が勇気を出してこう思えるだろう。
成功している人の中には、トントン拍子に進んできた人も、様々な苦労を経てきた人もたくさんいるだろう。彼らが積み上げてきたものは、どんなものであれ素晴らしいものだと思う。だがそれが全部無駄だったと知った時、それを受け入れられる程の勇気を持っていられるかどうか。すべてがかかっているのではないだろうか。
鶴屋さんは「自分が主人公ではない」ということができる強さをもっている。私はそれを心のどこかで感じていたのかもしれない。
あと鶴屋さん、一番可愛いしね。
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