海の色を知っているか 3

波野さんは波の無い岩場に立ちバケツから絵描き用の筆を取り出し海にぽちゃりと入れました。

「その筆は何か特別な筆なんですか?」

私が尋ねると波野さんは大笑いして

「いやいや、ただの筆だよ。100円で買えるさ」

と言いました。私はてっきりとある国の魔女が作った特別な魔法の筆なのではないかと勝手に空想していたので、何の変哲もない筆だと聞かされてちょっとだけ恥ずかしい気持ちでした。

波野さんはそれまでの温和な表情と打って変わって真剣な表情になり海をかき混ぜ始めました。海が筆の描く円に従いクルクルと回り始め、それと同時に波の音がヒュウヒュウ呼吸するように鳴き始めました。波野さんはその音を聞きながら「1,2…1,2…」と呟きタイミングを計っていました。そして、ゆっくりと筆を引き上げると海から蜂蜜のような粘度の高い液体が筆に付着してきました。波野さんはその液体をバケツに移します。私はその光景に息を飲みバケツの中を覗きました。その中には私が今まで見たことのない美しい青色がゆらゆらときらめいていました。なんて美しいのでしょう。

太陽が昇り始め海に朝日が染まり一日の始まりを私たちに告げました。波の音、潮風が私の耳と頬をくすぐります。

「面白かったろう」

「ええ、感動しました」

私たちは私が今朝淹れたコーヒーを2人で飲みながら海を眺めていました。私が礼を述べると波野さんは自分の最後の仕事を見て貰えて嬉しかったと言いました。

「今までずっと孤独な作業だったからさ。この仕事をわかってくれる人間なんて月歩堂さんくらいだよ」

「そうでしょうか」

「そうさ。誰にも理解されないからこの技術は今日消えるんだ」

「誰か後継者はいないのですか?」

波野さんはクスリと笑い、「いないさ。これに熱中し過ぎて結婚すらし忘れたからね」とポツリと言いました。

潮風が私たちの会話をすぐに遠く遠くへ飛ばしていきました。

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