日進堂店主覚書き
ずいぶん日が短くなってきた。今日も相変わらずの売れ行きで溜息交じりに店を閉めようかと思案していると入口のドアが開いた。くたびれたスーツを着た中年の男だった。宙を漂う金魚が驚いて私の周りに集まる。
「いらっしゃいませ」
少し上ずった声で挨拶すると男は軽く会釈する。
「反魂香はありますか。あるだけ欲しいのです」
私は一瞬固まってしまった。「反魂香」久しぶりにその名を聞いた。
「あ、実はもう扱っておりませんで…申し訳ありません」
男はカッと目を見開いたがすぐに目から光が無くなった。
「私は20年くらい前にここで反魂香を買ったのです。そうですか。ではもう手に入らないのですね」
「ええ。先代の頃は仕入れていたようですが、今は反魂樹が無くなってしまったようでして…わざわざ来ていただいたのに申し訳ありません」
男はうなだれトボトボと店をあとにした。私は入口に鍵を掛け閉店の準備を始めた。私は嘘をついた。反魂香はまだ倉庫に沢山ある。先代が儲けになるからといって大量に仕入れていたのだ。
反魂香とは中国にある反魂樹という木から採取される樹液から作られたお香で火を灯すと煙から死者が現れるのだ。誰でも亡くなった最愛の人に会いたいと思うだろう。事実、先代まで店の売り上げの多くは反魂香の売り上げだったのだ。
しかし、反魂香には副作用がある。このお香の匂いを嗅ぎ続けると自分の魂と肉体が分離しやすくなり、やがて魂が肉体から離れてしまう。それは死ではない。よって天国へも地獄へも行くことが出来ず永遠にその場を漂う存在になってしまう。しかも反魂香には中毒性があり一度嗅ぐと止められなくなってしまう。珍奇舶来法違反の品物である。それを先代は知っていて密売していた。私は先代からこの店を受け継いだ時に反魂香は販売しないと決めたのだ。
店を片付け外に出ると冷たい風が吹いた。あぁ冬がすぐそこまで来ているんだな。あの男のことが頭をよぎる。これでよかったのだと何度も頭の中で反芻した。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?