菊花の幻想
9月9日のことである。だいぶ涼しくなってきたので、浅野川をぼんやり眺めに行った。秋色に染まる浅野川はことのほか美しく、やがて来る厳しい冬の前の輝きといった感じだった。ひがし茶屋街にはまだ観光客が多い時間帯だったので、しばらく主計町界隈を散策することにした。
この辺もひがし茶屋街に負けず劣らず風情がある街並みを見ることができる。歩いていると暗がり坂というその名の通り薄暗い石段がある。普段は気味が悪いので少し覗く位なのだが、何を思ったのか今日は石段を登ってみようと思った。
いや、これは正確ではないな。正しくは坂の上にある民家の入り口に着物を着た女性が立っていて、私を見つけると手招きしていたのだ。どう考えても怪しいが女性の持つ不思議な魅力に幻惑され、つい応じてしまった。
女性が手招きする家に入ると玄関から部屋まで黄色い菊の花が一面に生けてある。その美しさに圧倒されたが、女性は気にもかけず部屋の奥へずんずんと進んでいく。私は玄関で中へ入るのを躊躇していると
「どうぞ、お入りください」
と女性が言う。その声は物静かで沈黙を言葉にしたかのような声だった。このまま帰るのは悪い気がして、お邪魔しますと中へ入る。一歩中へ入ると座敷に通され、女性が酒席を用意して待っていた。
「さあさ、お待ちしていました。どうぞお飲みください」
「待っていた?俺を?」
訳が分からずいると問答無用にお猪口に酒が注がれ飲むように勧められた。
一口飲む。目の前がぐるぐると回る。菊の花が蕾から花が咲き、やがて散る。菊の輪廻転生が私の目の前で次々繰り広げられる。言っておくが少しも気持ちがいいものではない。上下左右東西南北全くもってわからないのだから。
「どうです?美味しいでしょう。今日は特別な日ですから」
「特別なのですか」
「今日は菊の節句ですから」
だから菊なのか。そう思った刹那。私は突っ伏してしまった。それからのことはわからない。気が付くと浅野川の中州にいた。身ぐるみはがされたと思ったが持ち物は無事だった。とはいえ、ここから脱出しなければならない。私は腰まで浸かってざぶざぶと浅野川を渡った。
その後、暗がり坂へ行ってみるも私が見た家もあの女性もいない。あとで金沢人に聞くとたまにそういう幽霊があの辺に出るらしい。その幽霊はどうやら昔、浅野川に身投げした人で人恋しくなると何も知らない人に悪さをする。なので、金沢人は小さい頃から浅野川で見知らぬ人が手招きしてもついて行ってはいけない。黄泉の国へ連れていかれるときつく教えられるらしい。
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