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10.拳がパッと開かれて

 少し前から、ワークショップについてオンラインで学んでいる。大人になってから何かをじっくり学ぶことはこんなに楽しいのかと驚いている。

 このエッセイは、自分が毎日何を思い考えているかを自分で知るため、そして友人・知人への近況報告も兼ねて書いている。
 日々の過ぎていってしまう小さなことをすくって、自分という棚にはなにが収まっているのか、棚おろしの意味をこめて綴りたい。

 「ワークショップ」というのは、講義など一方的に知識を伝えるのではなく、参加者がワークを通して学び合ったり、なにかを創り出したりする。
 個人的な理解は、日常とは切り離された安心安全な空間で、他者同士が対話をしてなにか発見していく場、だということ。
 そして対話の場では、「みんな違う価値観を持っているから分かり合えない、だからこそ共有できる部分を探し広げる」ことが大事で、そんな場づくりの方法を学んでいる。

 そもそも、わたしは転職が多く2〜3年ごとに職場を変えてきた。民間企業、NPO、行政、教育現場等、ご縁があったところで働いた。
 そのどの職場でも、上司や同僚との関係に課題意識があった。みんな気力、体力、能力が違い、それぞれ歩んできた道が違うから価値観も違い。それでも一緒に働き良い仕事をするにはどうすりゃいいの、長い時間一緒にいるのだから気持ち良くいたいじゃない。
 人間関係に翻弄されてきたと言ってもよいだろう。

 また、病気や障がい、困りごと等を持つ同僚も多く(わたしも月に1〜2日必ず仕事を急に休む)、その人たちがコミュニケーションのすれ違いで悲しい思いをしているのが見ていられないがどうすりゃいいか分からん!というのもあった。
 さらには多くの人がさみしさを抱え、理解されたい気持ちがあるということを感じながら、でも全員のことを受け入れ肯定してあげられない自分に悩んでいた。

 そんなことを友人に話したら、この講座のことを教えてくれた。
 繰り返し“ひとはそれぞれ違う”ことをたたき込まれるから、なにかヒントになるかもよ、と。

 そんなことがきっかけなので、純粋に場づくりが学びたかったわけではない。違う価値観の人同士がどうやったら気持ちよく過ごせるか、その方法が知りたかった。

 そんな中、さっそく基礎理論の講義で「ひとは分かり合えない」というパワーワードを得た。心から分かり合える、は前提条件ではなく、最終目標だと言う。
 この考え方が得られただけで、受講料めっちゃ高かったけど、わたしはもうこの後の講義受けなくてもいいや、と思ってしまった。ぎゅーっと握っていた拳がパッと開かれて、両手が空いた感覚になった。

 この考え方なら、大嫌いだったあの人もこの人も、困りごとを抱えたあの大好きな人も、すべてを受け入れなくていいんだー共有できる部分を探せばいいんだーと心が軽くなった。
 好きでも嫌いでも、入れ込んでその相手自身になってしまうような感覚だったので、いつもキャパオーバーだったのだ。

 とはいえ、せっかくなのできちんと最後までワークショップをデザインできるように学びきりたい。ワークショップで良い体験や対話をすると、価値観がひっくり返ってとても楽になることが分かった。

 簡単ではないが、場づくりを通してモヤモヤが晴れるような手伝いができるようになればいいなーなんて恐れ多くも思い始めている。

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余談だが、書いていて数年前にせんだいメディアテークのエントランスホールに掲げてあった横断幕を思い出した。当時は理解できなかったが、今なら少しは分かるかもしれない。

『対話の可能性』鷲田清一 (※序の文章)


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