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9.“わたし的に素敵な格好をしたわたし”を見せられて、どう思う?

 先日、フォトウエディングを挙げた(「挙げた」という言葉でいいのだろうか)。結婚に関する一連のもの(結婚式や披露宴や写真や、その報告等々)って「自己満足の極み」だと思い込んでいたので、わたしは自分がそれをやる立場になって、なんだか恥ずかしかったし“自分なんかがやっていいのか?”という気持ちが抜けなかった。

 このエッセイは、自分が毎日何を思い考えているかを自分で知るため、そして友人・知人への近況報告も兼ねて書いている。
 日々の過ぎていってしまう小さなことをすくって、自分という棚にはなにが収まっているのか、棚おろしの意味をこめて綴りたい。

 (フォトウエディングがどのようなものかというと、ドレスや着物など婚礼衣装を身に着けて、メイクや髪型等を整えてもらい、選んだ会場でプロのカメラマンさんに記念写真を撮ってもらうというもの。わたしの場合は、夫と自分の両親を呼び、晴れ姿を直接見てもらいつつ一緒に写真を撮り、そのまま解散・・・はちょっと寂しいので会食というかたちを取った。)

 入籍した2020年1月当初、結婚式・披露宴をしようと思っていた。・・・が、思いは複雑で、いままで結婚式に招待してくれた友人へのお返しも、両親へ晴れ姿を見せることもしたかったが、一方で夫もわたしも“見せ物”にされて勝手にいろいろ思われるのに抵抗があった。
 でも自分の中に、一生に一回くらい素敵な格好をして見てもらいたいという思いがあることにも気づいていて、そう思っている自分がとても恥ずかしかった。

 それまで個人的に、結婚式に限らず、自分を見てほしい・自分にかまってほしいという「強い自己満足」を他人に見た時、あまり良い気持ちになれなかった。だから、“わたし的に素敵な格好をしたわたし”を見せられて、友人たちはどう思うだろう?と不安だったのだ。

 そうこうしているうちに、ご時世的にいろいろ難しくなり、結果的にゲストはなしのフォトウエディングに落ち着いた。

 が、しかしフォトウエディングといえども、“わたし的に素敵な格好をしたわたし”をつくることに変わりはない。
 さらに、衣装やメイクや会場の担当者にやってほしいことを伝えるには、好みをはっきり言わなければ言われた方も困ってしまう。だから意識して、あいまいにせずはっきり言うけど、まだまだ気持ちは複雑だ。

 そんな折、ドレスショップに行ったら担当者が偶然、高校の同級生だった。はじめは、衣装の選択についてどう思われるかな、と複雑だったが、むしろ彼女はわたしの好みを把握した上で「しのちゃんはこれが絶対似合う」と、ドレスも着物もわざわざ取り寄せてくれた(結果それらを喜んで選んだ)。

 また、ヘアメイクチームのみなさんも好みを踏まえた上でアイデアを出してくださった。
 当日は朝早くから着付けてくださり顔も髪も整えてくださり。モデルさんでもない一般人をきれいにするってどうなんだろう、と思っていたが、ゲストがいない写真撮影では、いつもポーズのアイデアを出し、みなさん個人の携帯電話で大量の写真を撮り(後日くれるらしい)、大いに楽しんでくれていたようだ。
 文金高島田のかつらをかぶったのだが、そのかつら自体が惚れ惚れするほど美しく喜んでいたら、「このかつらをきれいだって思ってくれる人がまだいるのがうれしい」と言ってくれたのが印象的だった。

 カメラマンの方も写真を撮る場所決めから、光の加減から、場の盛り上げまでやっていただき、しかもそれが頑張っている感じではなく素なのが感じられた。
 写真自体も、正式な納品の前に、携帯で見たりSNS用のデータサイズが小さいものを撮影後すぐ編集してくださり、もう帰っても良いのに写真を一緒に見るという時間を共有してくれた。

 ウエディングプランナーの方には、延期などしたのでトータル2年近くお世話になり、しかも好みをはっきり言う場面が多かったので不安だったが、なんだか仲良くなって一緒に登山に行く計画を立てている。

 なにが言いたいかというと、好みを出してかたちにするというのは完全な「自己満足」ではなく、周りの人の仕事の集合体で、“自分を見せたいというかなり恥ずかしい気持ち”に対して、喜んだり、楽しんだりしてくれる人もいる、ということ。

 結婚式という「好きの化身」を持ってしても、(身内を除いた)関わった誰かが、嫌な気持にならず喜んでくれるというのは、なんだかありがたいし自分の枠が外れる出来事だった。これから、必要以上に怖がらずに、自分を出していってもいいのかもなんて思っている。

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