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ヤマシタトモコ『ほんとうのことは誰にも言いたくない』 理解できない他者との共存と愛

『違国日記』などで知られる漫画家・ヤマシタトモコさんの全編語り下ろしインタビュー本『ほんとうのことは誰にも言いたくない』を読みました。

インタビュアーの山本文子さんが他の作品についても細かく設定を説明しながら質問してくれているので、未読の作品があっても楽しめると思います。

私は違国日記がきっかけでヤマシタさんの漫画を読み始めましたが、インタビュー本を読んで改めて思ったのが、愛情をもって日常を見ていて、その自分にとっての日常を描くことを大切にしているなということです。

他の作品だと、いないことにされる存在や概念(例えば、体や心の障害を持つ人、マイノリティの人、社会的に抑圧されている男性性や女性性など…)を日常の一部として描いて、逆に他の作品だと強調されすぎることを強調しすぎない(恋愛はあくまで日常の一部であり、人生の全てではないので、当事者2人の閉じた世界にしない、など)。

ほかにも、社会への怒りだったり、ヤマシタさんの好きなもの(映画、音楽、小説、漫画…手塚治虫、宮崎駿など)だったりがたくさん語られていて、紹介されていた作品を見てみようと思いました。

映画化もされた違国日記が最も知られている作品だからか、インタビュー本の最初と最後で違国日記を語るという構成になっていました。

違国日記は、両親を事故で失った15歳の主人公・朝が、親戚の作家・高代槙生に引き取られて共同生活を送るという話です。

シチュエーションこそドラマチックですが、お話自体は必要以上にドラマチックには描きません。詩的で、丁寧に行間を読むような作品だと思っています。最初に読んだ時に思ったことは、「これは丁寧に読まないといけない作品だな」というのと、「編集者(出版社)とよほど信頼関係がないと始められなかった作品だろうな」ということでした(笑)。

朝と槙生の関係は家族でもなく、じゃあ何なんだろうとなりますが、別に名前つけなくていいんじゃない?人間はもともとお互い理解できない者だし、それでも日常の中で愛が見えるでしょ?というメッセージなのかなと勝手に解釈しました(笑)。

ヤマシタさんは本の中で、愛という言葉を何度か使っていました。日常の何気ないシーンを尊いものとして捉える感受性を感じました。

例えば、別の作品で描いた「いってきまーす」「気を付けてー」という家の中での何気ない描写も「なんてことないように思えるけど、それが言えること自体が愛」と言っています。

ヤマシタさんがお母さんと愛について話していた内容も印象的で、お母さんは「愛は外来語だから、日本人には根本的に理解できないのではないか。日本語で言い表すなら、慈しみや労わりのほうがしっくりくるのでは」と話します。それでヤマシタさんは「その言葉で言い表せる、取り立てて特別じゃない風景がやっぱり好きなんだと思います」と腑に落ちたようです。
たしかになぁと思いました。愛ってなんだか漠然としてぼやけている感じがしていて、慈しみや労わりのほうがスッと体に入ってくるなと。

違国日記で、朝と槙生はお互い理解できないけど共存しているし、自分の問題は自分で解決するしかないということも分かっているけど、特別ではないただの日常の中で愛を感じているのかなと。

朝が、最後まで特別な才能のないふつうの女の子だったことも誠実な描写だなと思いました。両親を失った15歳の感情のまとまらなさ、学校での無邪気な会話、友だちとの距離感…ドラマチックになりすぎると嘘っぽくなるし、穏やかにしすぎるとエンタメ性がなくなるし、漫画としての見せ方がすごく難しそうだなと感じました。

15歳って無償の愛がほしい時期ですし、堂々とわがままでいたい年頃だよなと思います。大人になってから読んだので朝に感情移入することはなかったですが、朝の成長物語を見守るようなイメージで読んでいました。大人になっても人間わがままですけどね。そんなことを考えました。


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