古典の日なので
すっかり忘れていましたが、今日は「古典の日」です。由来が『紫式部日記』の記事である、というのは有名なのでご存知かもしれません。由来となった『紫式部日記』の本文は次の通りです。
左衛門の督「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」とうかがひたまふ。源氏に似るべき人も見えたまはぬに、かの上はまいていかでものしたまはむと聞きゐたり。
(藤原公任が「すみませーん、このあたりに若紫はおられますか?」と伺いなさる。光源氏のような素敵な男性もいらっしゃらないのに、そのような女性がいるわけないでしょうに、と思いながら聞いていた。)
これは確か宴会の場面なので、まあ簡単に言うと酔っ払いのうざ絡みです。「この辺に可愛い子いるかなー?」と酔っ払いが絡んできたので「はあ?せめて光源氏レベルのイケメンを用意してから来いよ」みたいな感じでしょうか。
「古典の日」なんて言うから雅なイメージがありますが、実際はこんなもんです。古典って敷居が高そうなイメージがありますが、「昔のラノベ」なんて言われているのを見たこともあります。現代人は授業で古典を習いますが、昔の人は娯楽として楽しんだものですから。
せっかくなので今日読んだ話を一つ紹介してみます。『伊勢物語』119段より、「忘れられない恋」(命名:私)です。
むかし、女の、あだなる男の形見とて置きたるものどもを見て、
形見こそ 今はあたなれ これなくは
忘るる時も あらましものを
短くてわかりやすい文章ではありますが、一応簡単な訳も書いておきます。
昔、ある女が、誠実でない(なかなか会いに来ない)彼氏が「形見に」と言って置いて行った物を見て、
(普通は愛を感じるはずの)形見が今となっては不誠実なものに感じてしまう。これが無かったら忘れられる時もあったはずなのに(形見があるせいで不誠実な彼を忘れられない)
大体こんな感じでしょうか。これって現代でも起こりうるのかなぁと思います。元恋人からのプレゼントを見て思い出してしまうとか、同棲していた後に別れた恋人の荷物を見た時とか。まあ共感できるかどうかは人それぞれかと思いますが、昔の人もあんまり今と変わらんなーと思うとちょっと親近感を持ちます。
古典の面白い所の一つはこのように現代と通じる所だと思います。逆に現代の価値観からすると「いや、そうはならんやろ」というのも面白いです。また機会があればnoteでも紹介していきたいなーと思います。
最後に念の為の補足です。このnoteでは敢えて古典を面白おかしく取り上げています。今日紹介したものももっと真面目に読むこともできます。しかし娯楽として文学の楽しみ方は人それぞれで良いと私は思っているので、ちょっとでも面白いなーと思ってもらえたら嬉しいです。