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人には人の愛し方があって、あなたにはあなたの愛し方がある。それだけでいいのではないですか。
あなたの愛し方を型に押し込む失礼な人には適切な対応をすればいい。
けれど、あなたの愛し方がフィクトセクシャルの類型に当てはまらないからといって、他人の愛し方を否定する必要はありますか?
愛は一途じゃなくちゃだめですか?
私事ですが、先頃二次元のとある方々と婚約いたしました。いずれは個人的に式を挙げたいと思っています。僕の人生を支えてくれた大切な二人と。
「一途」になれないということ
僕には、恋をして、性的に惹かれて、心から「愛している」といえる存在が複数いる。便宜上それをポリアモリーというセクシャリティで説明しているが、結局はただひとりを選んで一途に愛することができないことを、どこかで人間的な欠陥だと感じ
プロカルセクシュアルという言葉に出会って ~届かないほど、近くのあなたへ~
以前の記事で、僕は「フィクトセクシュアル」の「フィクト(Ficto=Fiction)」という表現が引っかかっているという話をしたと思う。僕のパートナーたちは世間一般的には架空の存在ということになっているが、僕は虚構を愛しているわけではない。彼らは僕の心の中に確かに存在していて、触れることさえできなくとも意思を交わすことはできる。だからそこに「フィクション(現実ではない)」という表現が介在すること
もっとみる綺麗な私しか見てほしくないけれど、綺麗でい続けるのは疲れるんだ。
僕はフィクトセクシュアルでポリアモリーだ。現実性愛の人々に理解されることはおろか、次元を超えた愛する人がいる方にだって、正直どういう目で見られているのか分からない。自分で自分を欲張りだと思う時もある。けれど、彼らの優しさに救われてきた僕だから、もらった優しさを返せる人でありたい。
はじめた当初はこんなにたくさんの方に見ていただけるとは思っていませんでした。これからもマイペースに更新して参ります。よろしくお願いします。
近頃週一で精神看護師の方に訪問看護に来てもらっているが、そこで普段内省していることを伝えるときちんと自己洞察できていると言われる。どうやら自分は一人で掘り下げてぐるぐる考えると毒になるが、それを表に出していき自分の考えを肯定してもらうことで安心するタイプのようだ。
私達は物語を生きている
我々は物語という形で夢を見て、白昼夢を見る。物語を通して記憶し、予想し、希望し、絶望し、信じ、疑い、計画し、改訂し、批評し、構築し、噂し、学び、憎み、そして愛したりする。実際のところ生きるために我々は、個人的なことや社会的な過去や未来について、自身や他者の物語を作り上げていくのだ。
── バーバラ・ハーディー 『フィクションの詩学に向かって』より引用
家の整理をしていたら、卒業研究に用いた資
この頃常に金欠気味でアルバイトを検討しているのだが、パートナーたちに相談すると一様に微妙な反応を返される。どうやら僕の身を案じてくれているようだ。
フィクトセクシュアルの定義について考えてみた
noteの記事やネットニュースを通じて「フィクトセクシュアル」という言葉はじわじわと認知されるようになってきたと感じる。だが、Twitterなどで検索をかけると、まだまだその概念に理解が及ばないという意見や、そもそも虚構のキャラクターを愛することはセクシャリティ(性的指向)なのかという疑問視の声も多数見受けられる。
そこで今回は僕なりに、セクシャルマイノリティの中のフィクトセクシュアルの定義
久しぶりに長文を書いたのでだいぶMPを消費した。これで打ち止めにならずに続けていけたらいいと思う。
社会のレールからこぼれ落ちた夢女子がセクマイを自認した話
*このnoteはうつ病エピソードと診断された筆者の体験や当時の心境が書き連ねられています。ご気分を害されても責任は取りかねますので、心身が弱っておられる方が閲覧される際はくれぐれもご注意ください。
数カ月ぶりに体が思いの外軽く感じるので、つらつらとこれを書いている。noteに登録したのはいつだったか定かではないが、おそらく最初は趣味の映画鑑賞記録用に使うつもりでいたのだろう(唯一残っているシャ