近所で親切にするのが難しい社会って

おれはたいてい1日くらい後ろから世の中を追いかけて生きているような感じなんだけど、それはわりと自分なりの自己防衛というか、追い回したくなってしまう自分を抑制する方法だったりする。
速さと分かりやすさへの抵抗の一種なのかも??

と、まあそれは置いておいて。
どうやら昨日あたりからネット界隈では排除アートが話題になっているみたいですね。さっき、徳力さんがこんな記事を書いていることや、田中元子さんがFacebookで別の記事をシェアしていることを知りました。

で、それで、以前からずっと思っていたけど、なかなか文字にしていなかったことを書きたくなりました。

以下、「ふーん。それで?」な内容だと思うんだけど、気が向いたら読んでみてください。

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近所に「ホームレスだろうな」というおじさんをときどき見かけます。
コロナ以前から…今住んでいるところに引っ越してきてからだからここ数年、毎日ではないけれど突起のあるベンチで夜を過ごしている姿を週に1度くらいかな? 目にしています。

「これ、あのおじさんにあげようか?」 これまでに何度か、妻とそんな話をしました。もう着なくなった防寒着や、口に合わなかった頂き物。
でも、一度もそのおじさんに渡していません。それは「でも、もしかして過大な要求をされるようになってしまったり、頼られて家に来られてしまったたら困るよね」って。

おそらく、そんなことは起こらないのだろうと思うのだけど、でも、もしかしたら…。
そんな風に考えて、結局「自衛のため」に行動を起こせない自分が少し悲しいです。そして同時に、これを「仕方ないことだろう」と納得している自分もいるのです。

それで、結局ちょっと離れた場所にいるホームレスの人にだったり、別の形で困っている人に手を差し伸べたりして、自分の心のバランスを取って…いや、罪悪感を減らしています。
だから何? って話でしかないのかもしれないし、単なる自己弁護でしかないのでしょう。でも、同じような悲しさや刹那さを感じている人は少なくないんじゃないかなと思うので書いてみました。

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<映画監督の早川由美子さんのツイッターには、大学教授が「間仕切り」があることを大学生に見せたところ、「ホームレスは怖いから、いなくなってくれると、多くの人が安心して利用できる」とか「多くの人が公平に利用できるよう、短時間利用を促すデザインにするのは、なかなか工夫されていて良い」といった反応があったそうです。>

 -- この声を、責める自分と悲しむ自分の両方が存在しています。

ただ、世の中がどちらかの色だけに染まってしまいそうなときには、しっかりと「あなたの中にも違う色も存在しているのではないですか? 深くまで覗きこんでみてください」と声を上げたいです。


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