デンマークから良質な体験とデザインの意味を考える
昨夜からロラン島でニールセン北村朋子さんと共に過ごし、雑談をひたすら重ねるというメッチャ贅沢な時間を過ごしています。
朋子さんとはこれまでも日本で、デンマークで、オンラインで、何度もじっくりいろんな話をしてきたけれど、今回はこれまで以上に朋子さんの話のエッセンスが、自分の中にしっくり染み込んでくる感じがしています。
それはおそらく、ここ数日で、さわぐりさんや安岡さんとじっくり雑談し、「デンマーク感」を理解するだけではなく、その良い部分をどう日常に取り入れていくのか。そして、充足感や幸福感をより感じながら暮らしていくのかについて、自分なりの方向性やアプローチ方法をアップデートできているからなのかな、なんて思ったり。
良質な体験と良質なデザインが与えてくれるもの
「デモクラシーを社会に根付かせるには、子どもの頃から良質なデザインや経験に触れることが欠かせないのではないか」という、さわぐりさんの言葉の深掘りを続けています。
朋子さんに、「この言葉、どう聞こえる?」とストレートにぶつけてみました。
「良質な時間や空間が、自分の心理状態にいかに多くの影響を与えるか。それが与えてくれる安心感や落ち着きが、そこで時間を共にした人同士の関係性を育んだり、自分の内面性を深めてくれる。それはおそらく、そういう場所で過ごした経験を通じて理解できないと、難しいんじゃないかしら。
そうやって考えると、良質な体験やデザインが与えてくれる経験は、デモクラシー社会の成立そのものというよりも、その一つ下の『より根幹的な価値観』を確立していくのに大きな意味を与えているんじゃないかしら」と。
いろんな雑談がテーマに少しずつ違う角度の光を投げかける
雑談のエッセンスを自分のためのメモとしてまとめただけだけど、きっと、これからまた何日も何週間も、もしかしたら何年も自分自身に問いかけ続けていく質問になるのかもしれない。
そして、自分の中での答えを大切にして、ゆっくりとでも、社会と一緒にこれらのことを考えていきたいなって思う。
・ 日本で「体験のデザイン」と言ったとき、「体験が精神性や価値観に与える影響」というものがどれだけ意識されているか。
ほとんどの場合において、体験のデザインは「もっと便利」または「より高い効率性」を実現するかどうかだけで考えられているのではないか。
・ 便利さの追求は、人類の幸せにポジティブな影響をいまも与えているのか。
ある程度までの「便利さ」が人を必要以上の労働から解放してくれるのは間違いない。だが、一定の値を超えて便利さを求めたり場合、そこから捻出される時間的ゆとりや精神の余白は、それを手にした人を、そしてその周辺の人を幸せにしているのか…。端的に言って、むしろ逆効果の部分の方が大きくなってしまってはいないか。
・ 言葉とコミュニケーションを本気で大切にできているか。
「信頼関係の重要さ」を謳う人や組織は多いものの、それがどうやって生まれて育っていくかを深く見つめていないのではないか。
さまざまな違いをたっぷり持っている人間同士が、きちんと納得感を持って共創を進めようとすれば、相手の言葉がどこから出てきたものなのかをより深く理解しようとするのは当然のことだし、自分の意味するところがきちんと誤解なく理解されているかを確かめながら進めようとするのは当然ですが。その重要さを理解していれば、言葉とコミュニケーションはどれだけ大切にしてもし過ぎることはない。