1.17 ~20歳の見解~
阪神淡路大震災からもう28年が経ったらしい。私が今20歳だから、当時はまだこの世に形すらない。
以前父から、母と出会ったきっかけは震災だった、という言葉を聞いた。その事実を知ってからはじめての1月17日。やはり思慮の浅いネット民の中には「平和ボケ」などと抜かす者もいるわけだが、私は今までよりも、より一層震災を近く感じている。
現在の私は考えすぎから来るバッド状態に入っており(人によってはこれをうつ、と言う人もいるかもしれない)、だいぶ参ってしまっている。孤独感に苛まれている。
最近、この頻度があまりにも増えたので、もう何をどうしようと、時間が経たないことにはバッドを抜け出せないということが分かった。半年前なら、さてストレス解消にパチンコでも行こうか、カラオケでも行こうか、映画館に行こうか、個室ビデオに行こうか、なんて試行錯誤していることだろう。そしてそれでもなお抜け出せないバッド状態にへとへとしていることだろう。
しかし今の私は知っている。バッドとストレスは別物だ。ストレスなんてものは、飴みたいなもの。少し時間が経てば溶けて消える。また、噛み砕いてしまえばより早く消すことができる。これに対し、バッドは、雨みたいなもの。こちらが何をしようと関係ない。止むのを待つしかないのである。
成長した私は今日、昼に大学を終え、パチンコにもカラオケにも寄ることなく、本屋を少しふらっとして、帰った。家ではpcと対面し、課題を進める。途中、バイト先から急遽今日入れないか、と連絡が来た。悩んだ結果、行かないことにした。別に予定は無かったし、お金は欲しいのだが、行きたくない、が勝った。
羊文学の「生活」という曲が、心に刺さった。これは本当に文脈もクソもない今現在の感情である。
今日、本屋にて「プロジェクト・ヘイル・メアリー 上」を購入した。よく聴くラジオのパーソナリティが一度おすすめしており、前から読みたいと思っていたのだ。とはいえ、おすすめしていたのはかなり前。裏表紙をめくると、初版は2021年らしい。まあいい。そんなことどうだって。仮に数日後に文庫版が刊行されたとしてもどうでもいい。読むのが楽しみだ。
小学生以降、阪神淡路大震災で黙祷なんぞしたことがない。と思う。
そもそも、黙祷の正解ってなんなんだろう。先生の「黙祷!」という声を合図に、少しうつむいて目を閉じる。低学年の頃は律儀に被災者や亡くなった方にメッセージを飛ばすつもりで祈っていたが、高学年あたりで、もういいだろ、と思い、ただ目を瞑るだけになった。
中学生になれば、被災者のこととかかんがえてどうすんねん、大切なのは今で、今後あれほど、いやあれより大きい災害が起きたときにどれだけ人々が協力し合って生きていけるのか、亡くなる方をどれだけ減らせるか、とかを考えた方がええんちゃうんかい、とイライラ考えているうちに「黙祷やめ!」と言われるようになった。
今の私の考えとしては、どの時の黙祷も、正解なんじゃないか、と思う。
その一分間、何してた?と聞かれて、震災のこと考えてた、という返答ができれば、それでいいんじゃないか、と考える。
例えば、今この記事を書いているときも、一応震災のことを考えた上で文字を打っている。しかしこれでは、今何してる?と訊かれたときに「note書いてる」と答えざるをえない。ここで「震災のこと考えてる」という人はいない。そういう奴はデート中に何してる?と訊かれたときに「結婚のこと考えてる」と言うようなものだ。それはそれでちょっとキュンっと来るが。(キュンっと来るか?)
それに対し黙祷は片手間ではできない。黙祷はハンバーガーを食べながらできるようなものではない。僅か一分弱でも、その時間だけは純度100%で、そのことについて考える。震災のことなら何でもいい。「黙祷なんてホンマにいるんかいな?」という思いでもいい。
その人がそれを思っていた、考えていた、という事実は、全く誰にも見えない。簡単には知られないし、必要ない、と言う者もいるだろう。でも、その小さな事実が、人間には、社会には、必要不可欠なピースのひとつなのではないか、と思う。
試しに私は家で一人、黙祷をやってみた。
しかし開始10秒ほどで、今バッド状態に入っていることに気付いた。将来のこと、人間関係なんかの悩み、不安が頭を巡ってしまった。
もしかすると、やっぱり黙祷なんてものは現代に必要ないのかもしれない。