女友達は、切なくて脆い
「毎月、何本も映画を見てます」というほどの映画好きとは言えないけど、これまで数え切れないほどの映画を見てきたと思う。
当時「めちゃくちゃ面白いやん」と脳裏に焼き付いた映画も、数ヶ月後いや数日後にあっさり忘れてしまうことがある。
それとは逆に「なんか暗かったなぁ」とあまりテンションが上がらなかった映画を、人生のふしぶしで思い出してしまうこともあったりする。
この映画も、そのひとつ。
映画「女の子ものがたり」
見た直後は
「深津絵里かわいかったなぁ」
「なんかちょっと寂しかったなぁ」
という程度の感想だったのに、歳を重ねて女友達との関係で悩むたびに、ふと思い出してしまう。
これからもそれは続くんだろうなと思っている。
スランプから抜け出せず自堕落な日々を過ごす“アラサー”の漫画家が、少女時代の友だちとの思い出に励まされ生きる元気を取り戻していくガールズ・ムービー。 参考
30歳になった私は、ときより女友達について悩むことがある。
この映画と同様に、思い出を振り返りながら今を見つめてみたい。
キラキラした思い出
小学校から大学まで色んな女友達ができて、毎日が本当にキラキラしていた。
空を見上げるなんてことも照れずにできた中学時代
仲良し3人グループで帰宅するのが日課だった。帰り道にある公民館のような建物の前の空きエリアで寝っ転がって「小さな恋のうた」を熱唱したり、恋バナで盛り上がったりしていた。
人がたくさん通る道なことはおかまいなしに、何をするにも恥ずかしさなんてなかった。
「なーなー、見てや!めっちゃ空きれいじゃない?」
「ほんまやなぁ。なんか雲が動くのめっちゃ早いなぁ」
って話しながら空を見る時間も控えめに言って青春度100%だ。
イタズラして怒られても笑い転げた高校時代
仲良しメンバーのうち2人が廊下にあったテーブルに積まれたお菓子の中からポテトチップスだけこっそり盗むイタズラを働いた。正義感が強かった私は必死に止めるも2人には響かなかった。
シャツの下にポテトチップスを隠しながら教室を移動し、休み時間に誰も入ってこない教室で他のメンバーも集合。ひそひそと笑い声をころしながら、こっそりポテトチップスを楽しんだ。
最初こそ罪悪感にさいなまれた私だったが、いつの間にかポテトチップスとドキドキに支配されてその状況を楽しんでいた。
「みんなで秘密を共有してる。」この事実が、楽しくて刺激的でたまらなかった。
結果的に、その日のうちに校内放送で「犯人は名乗り出なさい」と言われ、反省文をかいたり泣いて謝ったり後日クラスメイトからグチグチ言われたり散々だった。
そんな、散々だったことさえも
「わたしら、バカすぎやん(最高やん)」
と爆笑できる女子高校生は強い。
今思い返しても、最高に刺激的で自分たちらしくて大好きな思い出。
大人だと思っていた大学時代ですらキラキラフィルターは続いていた
わたしは女の子中心のサークルを立ち上げた。メンバーは見事にかわいくて、キャピキャピした子が揃っていた。
そこまでキャピキャピしてなかったメンバーもつられて、どんどんキラキラな毎日にのめり込んでいった。
服屋さんでもカフェでも、旅行先でなにを見ても「きゃー!かわいいー!」とはしゃいでいた。おじさんを見ても「かわいいー!」って言っていた。
ときには真面目にローテンポで喧嘩してみたり、大人ぶって美術館に出向いてみたりしたものの、何をしてても、みんなといれることが結果的には楽しかった。
世の中にうつるすべてにキラキラのフィルターがかかっておかしくなってしまったんじゃないかと思うくらい、見えるものぜーんぶがキラキラと輝いて見えていた。
そんなキラキラした関係が変わってしまったのは、いつだったんだろう...
いつの間にか変わってしまった価値観
私が違和感を持ち始めたのは大学3年生の途中くらいだったと思う。
自己紹介にも書こうと思うが、当時関西の界隈では大人からも注目されていた頭が良く面白いことを企画する大学生集団がいた。そこに運良く関わることができ、かっこつけて MacbookPro を買い、企業に企画書を提案するなどちょっと大人のマネごとをし始めるようになった。
そこから、私が見える世界が一変してしまったのだ。
今までキラキラしていた女友達との時間が、なんだかつまらないものに見えた。
小さかった違和感は、わたしが海外に行き東京で就職してからも少しづつ成長していった。
物理的な距離があるから、なんとか保てていた関係だったのかもしれない。年に 1 回会える貴重な機会には、近況報告(主に恋愛話)や思い出話をして過ごした。
「やっぱり皆といると、変わらんなぁ〜」
と言う友達に共感することもあれば、共感できないときもあった。
そこからまたしばらくして、結婚ラッシュが到来。それぞれ新たなパートナーができたり、ここから恋人をつくるぞと意気込むメンバーもいたり、ライフステージにばらつきが出てきた。
また、パートナーという価値観に大きな影響を与える存在ができたことで、それぞれの価値観が同じ方向を向いてるわけじゃなくなってきた。
それでも、年に数回なら話は盛り上がり「あの頃」に一時的にワープすることができる。でも、もう「あの頃」の話をするのも何十回目だろうか。そろそろ飽きてきてしまう。
私の価値観に大きな影響を及ぼしている仕事の話に誰も興味がないことは、わたしにとってものたりない一つの要素となっていった。
仕事とはお金を稼ぐためであり、やりがいとは程遠いところにいた友人とは話せる内容も限られていってしまった。
切なくて、脆い
いつの間にか、違和感の種を持ち始めてからは 10 年程経っていた。
そうか、そんなに経ったのか。
そんな違和感の種から、結局疎遠になってしまった友達がいる。
あのキラキラしていたときに欠かさず隣にいた、かけがえのない友達のひとりはもう近くにはいない。
明確に価値観の違いが明らかになり、2 回程すれ違いを繰り返しお互いに明確に距離を置くようになったからだ。
大切な友達だったからこそ「悲しい」とか「修復したい」という気持ちでいっぱいになった。毎朝起きるたびに「何を間違えたんだろうか」と頭のなかでなんとも言えない感情がぐるぐるすることもあった。
違和感を持ちながらも、好きだと思える友達との関係を維持してきた自分には受け止められない出来事だった。
変わっていくもの
ずっと変わらないものなんてないし、きっと友達との関係だってそう。
わたしにとっては受け入れるのにとても時間が必要なことだったけど、この出来事は、いま周りにいてくれる友達との関係を考えるきっかけになった。
今、近くにいる人達を大切にしたい
30 歳にもなって「友達、友達」って、そんな年頃ではないかもしれない。でも私にとって「友達」はかけがえのない存在であることは確か。
すこし変わった価値観かもしれないけど、会社の同僚や飲みに行く先輩ですら友達だと思っている節がある。
30歳になったからこそ ふわっ とする「友達」との関係においても、大切にしたい気持ちをちゃんとかたちにできるように、ときどき頼ってみたり、ただただたわいもない話をしたいとお茶にさそってみたり工夫はしている。
もちろん、無理してではなくて、自然に。
家族も、友達も、恋人も、どんな関係性も、1 日 1 日変わっていく。
今、周りにいてくれる友達もこの先ずっと近くにいられるかはわからないけど、自分が「近くにいたい」と思ううちは、その気持ちをしっかり伝えていきたい。