鈴木薫

1947年生まれ。好きなこと: 自然、季節の果物、健康維持、生成AI、新しいことを学ぶ…

鈴木薫

1947年生まれ。好きなこと: 自然、季節の果物、健康維持、生成AI、新しいことを学ぶこと。 引退した家庭塾の経営者。教育を信頼しています。 https://twitter.com/karasutoragara/status/1670611734640611333

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慣れればデジタル技術は高齢者の味方: 私の7つの具体例

77歳を迎える直前の今、私の生活はデジタル技術のおかげで大きく変わりました。去年の夏に息子とDXを始めた時点では想像もしていなかったことが、今では日常の一部です。買い物や支払い、食事の注文、そしてコミュニケーション。多くの恩恵がありました。 ①ネットスーパーで届く安心60代半ばに免許を返納しており、一年前の時点では、スーパーでの買い物は徒歩か自転車で行き、自分の目で見て品物を選ぶのが普通でした。現在はネットスーパーを利用し、スマホのアプリで必要なものを注文できるようになりま

    • キャリアが壊れてもそれでも。1980年代の生徒と私の小さな教室

      幼い頃から先生に憧れていて、「大きくなったら何になりたいの」と聞かれると、いつも「先生」と答えていました。 未来のために出来ることとして、体験を共有します。私のしてきたことが、保護者の方や教育者の方のお役に立てたらと願っています。 昭和40年頃は、女性が社会に出ても、会社で重要な仕事をしている方を見ることはほとんどありませんでした。数年働いたら結婚して退職するのが当たり前で、25歳を過ぎると「売れ残り」と呼ばれたものです。このような状況で、教師という仕事は責任があり、やりが

      • 60数年前、あの日、東京行きを決めて良かったこと

        私の人生は振り返ってみると、多くの選択と困難に満ちていました。自分で選んでよかったことは、親から「東京で暮らすこともできるけれど、お前の気持ちでどうするかを決める」と言われ、「行く」と答えたことです。理由はハンデのある身で農村で生きるのは困難だからです。 両親は引揚者で、家は貧しく、戦後の混乱期で世の中に何もなく、ないないずくしの中で育ちました。母は結核で亡くなり、父は男手一つで私ときょうだいを育ててくれました。 私は幼い頃元気いっぱいの子どもでしたが、ヨチヨチ歩きの頃に

        • 牛と父と私と : インタビュー

          「長野県で、お祖父さんが牛と働いたのは知っています。農地はどのくらいの広さでしたか?」 「畑3枚、田んぼは大人1人と子供3人がギリギリ食べられる程度。果物も野菜も、父が器用に育てたけど、収穫量や面積を数字では把握していません」 「まだ、小学生でしたね、もっと幼い頃もありますね。牛は、お祖父ちゃんとどう働きましたか?」 「田んぼの畝を耕す。耕運機が普及する前は、牛が耕したの。牛が引く前は、万能鍬で人が耕した」 「仕事風景はどんな感じですか?」 「お祖父さんが、スキを固

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          自己紹介

          中学1年生までは長野県で育ち、その後は父の仕事の関係で、都内の下町で育ちました。大学時代は学生運動が激しく、大学がロックアウトされることもありました。学費を自分で賄っていたので、学生運動とは距離を置き、百貨店などで人材派遣で働いていました。国文学を専攻しましたが、一番身についたことは、図書館の使い方でした。 当時の山手線は、「尻押し部隊」がいて、文字通り電車に押し込まれて通学通勤しました。教育実習で職員室の人間関係の難しさと直面し、教育産業に従事しました。夫や子どもの療養と

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