アイルランドの伝承「エウェルへの求婚」について
1.タイトルと分類
私が翻訳した「エウェルへの求婚」について説明します。(訳文など、「エウェルへの求婚」記事一覧はこちらからどうぞ)
アイルランド語ではTochmarc Emire。EmireはEmerの属格単数形で、クー・フリンが求婚する女性、エウェルです。このmの音(mの軟音)はアイルランド語に特徴的な音で、日本語にはない音です。ものによってはvの音と説明されることもありますが、また少し異なります。私の個人的な意見ですが、牛の鳴き声の音に似ている気がします。日本語で表記することは不可能なので一番近い「ウ」の音で表記していますが、日本語では他に軟音化されていないmの音で「エメル」とか、英語読みで「エマー」とか書かれることもあります。
Tochmarcは「求婚すること、言い寄ること」という意味の動名詞。動名詞は後続の属格形名詞が目的語になるので、「エウェルに求婚すること」の意味になるわけです。
「エウェルへの求婚」はアルスター物語群に含まれます。 アイルランドの異教的伝――いわゆるケルト神話と呼ばれるもの――は、近代以降では通常三つの「物語群」(cycle)に分類されます(過去記事参照)。そのうちの一つが、アイルランドの北部にあたるアルスター国の英雄たちを中心とする「アルスター物語群」(Ulster Cycle)です。これらの物語は多くの場合英雄クー・フリンを主人公としており、この「エウェルへの求婚」も同様です。
この物語群は、クー・フリンの他に、フェルグス・マク・ロイヒ、コンホヴァル・マク・ネサ(コンホヴァルについては単独の記事を書きました)、コナル・ケルナッハなどの有名な英雄たちが登場します。またアルスター国のライバルであるコナハト国の女王メズヴ(近代アイルランド語ではメイヴ)や、クー・フリンの師匠であるスカーサハなどもゲームのために有名です。スカーサハはこの「エウェルへの求婚」が主な登場エピソードです。
2.あらすじ
「エウェルへの求婚」は、次のように始まります。大国アルスターの若く美しい英雄クー・フリンは未だ妻がおらず、アルスター中の妻たち、娘たちが彼に好意を寄せていました。またクー・フリンが早死にすることへの危惧がありました(「クアルンゲの牛獲り」では、彼が永遠の名声を得、その代わりに早死にするであろうという予言が行われます)。それゆえ彼の跡継ぎをもうけてもらうためにも、アルスターの男たちはクー・フリンの妻を探しますが、見つかりません。それゆえクー・フリン自らが相手を探し、ある富裕な貴族であるフォルガル・モナッハという人物の息女エウェルを見初めたのです。それは素晴らしい女性で、女性に望みうるあらゆる美点を備えていました。
またこのエウェルこそは、エーリゥの乙女たちの中で、クー・フリンが言葉を交わし結婚を申し出るのにふさわしい、ただ一人の女性であった。なぜならば彼女は6つの長所を持っていたからである。姿態の美しさ、声の美しさ、声に宿る音楽のような調べ、手先の器用さ、機知、貞淑さである。クー・フリンは言った、アイルランドの娘たちの中で、年齢と姿態と家柄において自分にふさわしい娘を除き、誰も自分とともに来ることはない、そして彼女がそうでないのならば、誰も自分の妻にふさわしくはないと。(¶10)
クー・フリンは彼女のもとへ行き、二人は謎めいた言葉を交わします。それは、彼女の父フォルガルに意図がさとられないようにするためでした。それらの言葉は暗示と隠喩に満ち、教養と知性ある者でなければ読み解けない暗号めいた会話でした。その中で、エウェルはクー・フリンはまだ大きな武勲を成し遂げていない若輩者にすぎない、として求婚を退けます。この時エウェルが挙げた具体的な武勲は、物語の最期に果たされることになります。
エウェルと別れたクー・フリンは、戦車の御者であるロイグに、これらの言葉の意味を長々と解説します。それは数多の神話的エピソードやその断片で、その中でも特にアルスターの中心地であるエウィン・ウァハの起源にまつわる物語は、長く一貫したものになっています。
その説明がおわると、語りはエウェルの父フォルガル・モナッハを中心としたものに移ります。彼はエウェルの取り巻きたちから会話を聞き、クー・フリンの意図を察し、彼女の結婚を阻むため、クー・フリンを亡き者にせんと企みます。その理由は明確にされませんが、同じアイルランドの「コンの息子アルトの冒険」や、ウェールズの「キルッフとオルウェン」などの話では、巨人などが姫を守っており、その姫が結婚する時に死ぬという運命になっているというパターンがあります。フォルガル・モナッハもフォウォーレ族という巨人めいた種族であるため、「エウェルへの求婚」もこのモチーフが根幹となっていると思われます。
フォルガルは、異国人の王に変身してエウィン・ウァハを訪れました。そしてクー・フリンが異界へ武術の修行に行くように仕向けました。クー・フリンは旅立つ前にエウェルと会い、互いに純潔を守ることを誓い合いました(なおクー・フリンはこの誓いを全く守っていません)。そしてコンホヴァル、コナル、ロイガレとともに旅立ちました。
彼らはまずアルバ(スコットランド)の〈戦士〉ドウナルのところで修業をしました。そこではドウナルの娘ドルノルがクー・フリンに惚れるのですが、彼女はとても人間離れした恐ろしい容姿をしています。それは彼らの住むアルバが、現実の場所ではなく、現実世界とは異なる世界、異界であるということを示唆しています。
ドウナルのもとでの修行が終わると、クー・フリンひとりがスカーサハという女戦士のところへ修行に行くことになりました。その道中、彼は一人ぼっちゆえの悲しみと苦しみを味わったり、恐ろしげな獣に助けられたり、美女に会ったり、見知らぬ戦士に助けられたりしました。その戦士から「クアルンゲの牛獲り」の予言とスカーサハの島への道案内を受け、クー・フリンはそこへたどり着きます。
スカーサハの島へ渡るには、橋を通らなければなりませんでした。その前にはスカーサハの弟子であるフェル・ディアドなどがいました。この橋は渡る者を拒み、誰かが渡ろうとすると反対側の端が高く持ち上がって転ばせてしまうのでした。そこでクー・フリンは〈英雄の鮭跳び〉を繰り出して突破します。
スカーサハの砦では、彼女の娘ウアサハがクー・フリンの姿を一目見て情熱を抱き、彼を歓待します。しかしクー・フリンは、その持ち前の怪力のせいか、彼女の指を誤って折ってしまいます。すると彼女の叫び声に館中から人が集まり、スカーサハに従う戦士が彼に戦いを挑みますが、敗北して殺されます。すると彼がしてきた仕事をこなす者がいなくなったので、クー・フリンがその代わりを務めると申し出ました。これはクー・フリンがその名前を得た鍛冶師クランの犬に関するエピソードと同じパターンです(「クアルンゲの牛獲り」)。
それからクー・フリンはスカーサハに剣をつきつけ、要求を飲ませます。それはウアサハとの結婚と、武術の修行と、彼の未来を予言することでした。スカーサハは戦士であるだけでなく詩人でもあったので、予知の力があったのです。
さて、クー・フリンがスカーサハ、ウアサハ母娘と過ごしていたころ、ルガズというクー・フリンの友が東へ(恐らくはアルスターへ)向かいました。そこでフォルガルはエウェルを彼に嫁がせようと取り計らいます。しかしエウェルがクー・フリンと約束していると聞くと、クー・フリンへの恐れから、ルガズは身を引きます。
それからクー・フリンの方に話は戻ります。スカーサハにはアイフェという宿敵がおり、彼女との戦争が起こります。スカーサハと同じ女戦士で、テクストによってはスカーサハと姉妹だったり母娘だったりします。クー・フリンに凶事が起こるのを恐れたスカーサハは、彼を縛り付け、眠り薬を飲ませますが、結局すぐに飛び起きて戦に参加するのでした。
クー・フリンは戦で活躍し、アイフェとの一騎討ちになりました。アイフェが自分の馬、戦車、そしてその御者を最も大事にしていると知ると、それらが崖に落ちそうだと嘘をつき、その隙にアイフェを倒します。クー・フリンはアイフェと愛を交わし、息子をもうけました。生まれてくる息子にコンラと名付けるよう言い、やがて自分と出会ったときにわかるようにするため指輪を授け、クー・フリンは彼女と別れます。これは「アイフェの一人息子の死」に登場するコンラです。その話では、クー・フリンは自分の息子コンラと戦って殺すことになります。
それからクー・フリンはスカーサハのもとで修行を完成し、数多の妙技を教わります。その中にはあの〈ガイ・ボルガ〉(ゲイ・ボルグ)もありました。そしてアルスターへ戻ることになり、別れ際にスカーサハが予知の詩を唄います。それは「クアルンゲの牛獲り」でクー・フリンが果たす役割を予言していました。
アルスターへの帰路で、クー・フリンはルアドという王に出会います。彼は、娘がフォウォーレ族に捧げ物として連れ去られてしまうので、悲しみに泣いていました。そこでクー・フリンが、娘を連れ去りにやってきたフォウォーレ族と戦い、娘を助けたのです。ルアド王は、その娘デルヴォルガルをクー・フリンと結婚させたがりますが、クー・フリンは断り、一年後まだ結婚したければアルスターにやってくるように言いました。
アルスターに戻ったクー・フリンは、フォルガルの砦を攻略しようとしますが、厳しい見張りのため敵わず、一年が経ちました。するとデルヴォルガルがやってきて結婚を迫りますが、クー・フリンはこれを断り、エウェルと結婚させられそうになり辞退したルガズに彼女を娶せ、事なきを得ます。
それから彼は〈英雄の鮭跳び〉でフォルガルの砦の防壁を飛び越え、フォルガルの戦士たちを、そしてフォルガル自身を殺しました。それからエウェルを連れ出し、エウィン・ウァハへ向かいます。その途上、彼は〈大いなる罪〉という川の〈シュケンメンの浅瀬〉という浅瀬からブレグ平原のボイン河までの全ての浅瀬で、それぞれ100人の戦士を殺しました。それはエウェルがクー・フリンに課した武勲であり、これにより彼は彼女にふさわしい戦士となり、二人の結婚を妨げるものはなくなったのです。
エウィン・ウァハに戻ると、まだ一つ問題が残っていました。というのも、王コンホヴァルは臣下の妻に対する初夜権を持っており、なおかつそれを行使すると、クー・フリンが怒り狂ってコンホヴァル王を殺すことは確実だったのです。
彼らはクー・フリンの怒りをおさめるため山に狩りに行かせ、その間に解決策を話し合いました。この板挟みに対し、賢者(ドルイド)のカスバズが案出した解決策は、コンホヴァル王に加え、その側近たるフェルグス、そしてカスバズもエウェルのベッドで共寝する、というものでした。
それがどのような理路で解決になるのか、テクストには書かれていませんが、もしかしたらコンホヴァルだけでなく重鎮の二人も相手にしたということで、エウェルをその他の女性より格上とすることにより代償としたのかもしれません。いずれにしろ、クー・フリンには名誉を傷つけた補償が払われ、アルスターの人々は二人を祝福し、丸く収まりました。それからというもの、死が二人を分かつまで、彼らは離れ離れになることはなかったのでした。そしてクー・フリンはアルスターの若い戦士たちの団のリーダーとなります。最後に詩人がその団のメンバーの名前を長々と歌い上げ、物語は終わりを迎えます。
3.バージョン
「エウェルへの求婚」の現存するバージョンは二つあり、古い方は短く、新しいものはより長いものです。このたび翻訳したのは長い方のバージョンです。古いバージョンとの最も大きな違いは、クー・フリンとエウェルの暗号めいた会話とその解説が存在しない事です。これは新しいバージョンの約半分を占めており、その結果2倍以上の差があります。
全体的な筋は同じであり、唯一残っている写本では最初の部分が失われていて、クー・フリンとエウェルの会話の場面から始まります。ドウナルのところからスカーサハの島へ移動する間の挿話や、スカーサハの戦士を殺してその代わりを務めることになる場面なども変わりありません。ただし新しいバージョンの方が文章表現が豊かであり、文章量が増えているのはそのせいでもあります。
参照:
Meyer, Kuno [ed. and tr.], “The oldest version of Tochmarc Emire”, Revue Celtique 11 (1890): 433–457, https://archive.org/details/revueceltique11pari/page/432
4.重要さ
日本では最近、特にゲームなどの影響で、クー・フリンやスカーサハなどの知名度が高まっています。しかし一方で、彼らの登場する話自体は、それほど知られていないのではないかと思います。スカーサハが登場する主な話は、この「エウェルへの求婚」と、類似の内容の「クー・フリンの修行」(Foglaim Con Culainn) です。なおかつ、クー・フリンがエウェルと結婚する話でもあるので、クー・フリンについて知りたい人にとっては、この物語はとても重要な位置を占めるのではないでしょうか。
なお、ものによってはスカーサハが「影の国」に住むとする場合もありますが、管見の限り、どうやら原文にそのような言葉はみつからないようです(私の見落としの可能性もあります)。彼女はアルバの東の島に砦(防備がされた邸宅)を構えて住んでおり、彼女が住む場所については一貫して「スカーサハの砦」(dún Scáthaige) という一般的な言葉で記述されています。
5.典拠
短いバージョン
Oxford, Bodleian Library, MS Rawlinson B 512 I, (a) ff. 101-122, (b) ff. 1-36, (c) ff. 45-52 [s. xv / s. xvi] ff. 117ra–118rb(最初の部分は失われている)
長いバージョン
Dublin, Royal Irish Academy, MS D iv 2 (992) [s. xv] ff. 74ra–78vb(欠けなし)
Dublin, Royal Irish Academy, MS 23 E 25 (1229) = Lebor na hUidre [s. xi/xii] ff. 121a–127b
London, British Library, MS Harleian 5280 [s. xviin] ff. 27r–35rb
Dublin, Royal Irish Academy, MS 23 N 10 (Betham 145, 967) [s. xvi] pp. 21–24; 113–124; 11–12; 25–26; 125–128(欠けなし)
Dublin, Royal Irish Academy, MS 23 E 29 (1134) = Book of Fermoy [s. xiv/xv] pp. 207a–212b(断片のみ)
London, British Library, MS Egerton 92 = Book of Fermoy fragment [s. xv] ff. 24ra–25vb(断片のみ)
Dublin, Trinity College, MS 1339 (H 2. 18) = Book of Leinster [s. xii2] ff. 20a46 and ff(¶30(エウィン・ウァハの起源譚、赤髪のマハの話。通常「マハの冒険」(Echtra Machae)として知られる)はこの写本書記による挿入。またそれは独立した話としてもこの写本に収録されている)
参照文献:
CODECS s.v. Tochmarc Emire (https://www.vanhamel.nl/codecs/Tochmarc_Emire)
Eleanor Hull, The Cuchullin saga in Irish literature, 1898, p. 50. (https://archive.org/details/cu31924026824940/page/n143)