1998年の二宮金二郎
わたしの実家は、ど田舎の山の中。小学生の頃は、片道30分かけて歩いて通った。
仲良しのお友だちは、だいたい町のあたりに家があったので、バイバイしてから15分くらい。一人で帰ることになる。
さみしくないの、と言われるかもしれないが、わたしの下校はここからが本番。
一人になったあとのとっておきのお楽しみがあったのだ。歩きスマホならぬ、歩き読書。
ランドセルには、たいてい借りてきたばかりの本が入っていた。児童書、伝記、詩集。
読むものがないときは国語の教科書。
物心ついた頃から本が好きで、暇さえあれば何か読んでいるような子どもだった。
家に帰ればゆっくり読めるが、早く続きが知りたい。てくてく歩いている、この時間が惜しい。
車通りの多い都会なら危険かもしれないが、わたしの家は、さっきも書いたけど山の中。
車はほとんど通らず、たまに近所のおばあちゃんが、セニアカーでゆっくり坂道を登っていくのを見るくらい。歩き読書にもってこいの環境だ。
おしゃべり相手がいないのはちょっぴりつまらなかったけど、頭の中では空想の世界が広がっていてさみしくはなかった。
しかし、人通りが少ないとはいえ、全くゼロというわけではない。
心やさしいご近所さんからのタレコミにより、わたしの歩き読書が両親の知るところとなる。
「危ないからやめなさい!」と注意され、「はーい」と良い子の返事をしたけれど、やめるつもりは無かった。
車にひかれたら怖いという気持ちはあったので、車の音がすると本を閉じ、通り過ぎるとまた読書を再開するという妥協案を思いつき、結局卒業するまで歩き読書は続いた。
こんなことをするのは自分くらいだと思っていたのだが、なんとお仲間がいたのだ。
数年前、地元に帰省し、夫の運転する車から外を眺めていた。夕方。わたしが歩き読書をしていた通学路を、当時のわたしと同い年くらいの女の子が歩いていた。車が彼女の横を通りすぎるとき、ふと見ると、その子の手には、本があった。
子どもの頃の自分を見ているみたいだった。
わたしは、なんだかすごく嬉しかった。
あの子は、何の本を読んでいたんだろう。
彼女がクラスメイトだったら、おすすめの本をきいてみたかった。
あの子も大人になって、歩き読書をしたことを思い出すだろうか。それとも、読書よりも楽しいことを見つけるだろうか。
歩き読書の先輩としては、あの子もずっと本が好きでいてくれたらいいなあ、と思う。
そして、いつかわたしの本屋からお気に入りの一冊をみつけてくれたら、それって小説みたいで素敵じゃん、と、ミラクルが起こる未来を想像する。