
なぜいま山川菊栄か──スネークマンショーからみる批評の役割
金持は第一に自分が何故富んでいるのか、貧乏人が何故貧乏なのか考えてみたことがあるのでしょうか。もしそれを考えてみたなら、そしてそれが分ったなら慈善などという馬鹿な真似はできないわけです。そのかわりに他人の労働を盗むことを即刻にやめ、蓄積した資財のいっさいを擲(なげう)って身みずから額に汗してパンを獲ようとしなければなりません。そして慈善がしたくてもできない世の中、貧乏人のいない世の中を早く作り出そうとしなければなりません。
鈴木裕子編「山川菊栄集 評論編 第1巻 女の立場から」(岩波書店/2011年)より
老人ホームに出資する金持ちの未亡人の偽善的態度に「ジャンプしてみましょうか」とまるでカツアゲのように迫るのがむしろ清々しい。 山川菊栄は1890年(明治23年)東京生まれの婦人問題評論家である。マルクス主義とフェミニズムの結合を目指し、日本の社会主義・共産主義陣営に色濃く存在する、男性優位の風潮にも切り込んだとされる。また最近とくに彼女が注目される理由には、セクハラやDV、リプロ、ジェンダーにおけるダブルスタンダードなどの問題にいち早く着目していたこともあるだろう。

山川は25歳のときに、伊藤野枝の論文への批評で文壇デビューした。冒頭の引用は、伊藤の論文の前半への賛意である。後半では、伊藤は売春業について「ああした業が社会に認められているのは誰でもがいう通りにやはり男子本然の要求と長い歴史がその根を固いものにしている。それは必ず存在するだけの理由を持っているのである」と肯定し、公娼制度廃止を訴える矯風会を無価値と論じる。矯風会とはキリスト教精神に基づいて禁酒・廃娼運動をすすめた日本初の女性団体である。対して山川は「売淫制度は不自然な男女関係の制定に伴って起ったもので、男子の先天性というより不自然な社会制度に応じてできたもの」と指摘したうえで、仮に一歩を譲って「いかに男子本然の要求であっても女子にとって不都合な制度なら私は絶対に反対致します」と主張する。さらに「同性の蒙る侮辱蹂躙を冷然看過しておいでのところを読んだ古い人々は『さてさて新しい女にも似合わない殊勝な心掛けだ』とさぞかしよろこんだことでございましょう」と述べ、「新しい女」であるはずの伊藤の言説が「古い人々」を利することを責め立てた。
一方で、売春する女性を「醜業婦」と呼ぶ矯風会や世間が持つ貞操観念については「貞操とは男子による女子征服の象徴である」として批判した。
明治生まれの女性が現代と同じような、というより現代もまだ是正されていないことに問題意識を持っており、それを訴え続けていたことに驚嘆する。
ほかにも山川の有名な論争に、与謝野晶子と平塚らいてうの「母性保護論争」がある。
与謝野は、男性の財力をあてにして結婚する女性が経済的に男性の奴隷となる、もしくは男性の労働の成果を盗用しているとし、それと同じ理由で、妊娠分娩の時期にある女性が国家に経済上の保護を要求することは奴隷道徳であると言う。
これに対して平塚は、母は生命の源泉であり、女性が母となれば個人的存在の域を脱して社会的・国家的な存在となるので、社会が母を保護することは女性ひとりの幸福のみならず、その子どもを通じて全社会・全人類の将来のために必要なことであるから、妊娠・分娩・育児期に国が補助するべきだと主張する。
山川はふたりの論旨を整理し、それぞれ細かに検証しこう述べる。
私は与謝野、平塚二氏の主張に対していずれも一面の真理を認めているもので、婦人の経済的独立、母性の保護、共に結構であり、両者は然く両立すべからざる性質のものではなくて、むしろ双方共に行われた方が現在の社会において婦人の地位を多少安固にするものだと考える。ただしかし私はたとえその二つがお二人の希望通りに十分に実現されたところで、それが婦人問題の根本的解決ではなく、婦人を絶対に現在の暴虐から救う道ではないと考える点において、お二人と意見を異にするものである。そしてその根本的解決を、婦人問題を惹起し盛大ならしめた経済関係そのものの改変に求めるほかないと考える点において、またその理想の実現を与謝野氏のごとく参政権の獲得に期待せず、平塚氏のごとく国家の好意に俟(ま)とうとしない点においても、お二人と異なっていることをお断りしておかなければならない。
婦人問題の根本解決には、社会主義的な改変が必要と言う。
YMOのアルバム『増殖』(1980年)にはスネークマンショーのコントが曲間にいくつか入っていて、その中に架空のラジオ番組で音楽評論家を何人か集めて80年代ロックシーンを考えるというものがある。評論家たちはそれぞれに「1日に8時間ロックを聴いている」「レコードを8万枚持っている」「ロンドンブーツを10足持っている」と相手を制しながらも、ロックについては「良いものもある、悪いものもある」と同じことを繰り返し言う。このコントは、何も言っていない音楽評論家を揶揄しているのだろうが、「ボクが言いたいのはキミとはちょっと違うんだよねー」と前置きしてからやはり「良いものもある、悪いものもある」としつこくしつこく繰り返すのが異様におもしろい。議論をしていると、相手の言うことを軽く否定しながら、けっきょく同じようなことを言ってしまうという体験がよくある。脱構築の試みの失敗とも言えるだろうか。自分でも驚くほどの大声で「良いものもある、悪いものもある」と最後には叫んでいるのである。

私がデザインするグラフィックTシャツブランド「SUBTROPICS」の新作に記した“SISTERS, LEARN TO DOUBT FIRST(姉妹よ、まずかく疑うことを習え)”とは、疑いを熱心にそして執拗に追求することを学んだとき、そこに女性の救いの道が開けてくるという、女性に対する山川菊栄の呼びかけである。彼女は曇りなき眼で言論を見ていた。誰かを「この人はこういう人」と決めつけるのではなく、その論を徹底的に検証し、賛同できるところ、異なっていると思うところをていねいに説いていく。それはエモーションに押され昨今廃れかけていた批評の役割であり、「良いものもある、悪いものもある」ということである。(渡辺光子)
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