ヴォルフガンク・ゲデオン『コロナ、衝突、内戦: グローバルな独裁への道?』⑤

合理的な政治であれば、どのような数値を重んじるべきなのか

私たちがいまわかったことはこうである。
・メディアにおいて報告されている感染者数は、感染者数ではなく陽性の 検査結果の人数である。
・またそれが伝えているのは、実際にどの程度の人々が罹患したかではな いし、ましてやどのくらいの人々が重症になったかでもない。
・報道されている数値は比例に基づく数値ではない。どのくらいの数の検査が行われているのかについては、それは何も語っていない。したがってそれは、感染の拡大について何も語っていない。
 ロベルト・コッホ研究所とそれと手を組んだメディアが流しているのは、情報ではなく、むしろ誤報である。それらが国民を不安とパニックに陥れようとしているのは明らかである。もし政治家がそのような数を自らの行動の指針にしているのであれば、彼らはあまりにも雑でぞんざいであると言わざるをえない。多くの事例において、ひとが口にしているのは、ただの意図的な詐術である。
 責任感のある政治家であるならば、このような誤解を招くような「感染者数」ではなく、以下の数値を参考にすべきである。
・コロナを原因に医学的に病気であると診断された人の数。
・コロナによる入院者とそれに応じた病床使用の数。
・実際にCovid-19によって死亡した人間の数。

コロナによる死者と「超過死亡」について
 ここでもう一つ、とりわけコロナ政治における悪質な詐欺行為に、けりをつけておかねばならない。それはすなわち、どこかで一度でもSARS2ウイルスに陽性反応を示したことのある人は、統計においてコロナによる死者に数えいれられているということだ。一つの例として、二〇二〇年七月六日のクレーフェルトの街における多数の死者がある。
 
街の健康保険部局の検査によれば、Covid-19に関連する新たな死亡として 登録されるべき事例は存在しないにもかかわらず、死亡者の数は、それをロベルト・コッホ研究所による統計と合致するものとするために、いまの体制に有意なものとして、ある場合には二三件まで上乗せされたのである。その理由としては、一度でもコロナウイルスについて陽性とされた人がその後に死亡した場合、原則としてそれまでも統計に組み込まれていることがあるのである。当該のクレーフェルトの死亡件数の場合では、彼らが何度もその後に陰性の結果となり、とっくに回復していたにもかかわらず、(そうした高齢者と複数の既往症をもった人々が)死者数として数えられたのである。

 何が起こっているのだろうか。一方において公式のものとして「コロナによって死亡した人々」について語られている。だがまた実際には、それによって実際の死亡者数についての本当の情報は伝えられていないのである。多くの場合において患者たちは、がんや心臓病や糖尿病などの基礎疾患において死んでいるに過ぎないのである。ウイルスは死の誘因・きっかけにはなっていても、病気や死の原因ではないのである。たとえばであるが、現在の時点で(九月二十日)、通例においては毎年だいたい二倍から三倍の気管系の病気による死者(誤ってコロナによる死者となっている、すべての人を数えいれたとしても、である)が世界全体には存在しているのだ。
 感染状況についての客観的な評価を可能としてくれるもっとも重要な数値は、全体における死亡件数(死亡率)といわゆる超過死亡だけである。超過死亡という言葉が表しているのは、対象となる時期において、それ以前と同じ時期と比較して、どの程度多くの人々がある国で死亡したか、である。たとえば、二〇一八年にはインフルエンザの季節において、ドイツではおよそ二五〇〇〇人の人が死亡したが、それに対して二〇二〇年の同じ時期には九〇〇〇人しか死亡していない。つまりこれまではまったく超過死亡は発生しておらず、むしろ死亡者数は減っているのである。コロナによってむしろインフルエンザの流行が抑えられたのであって、少なくともドイツや他の多くの国々において、コロナは前回のインフルエンザの流行と同水準の危険性になど到達していないのである。
 もっと調べてみるのであれば、ひとはほとんど理解不可能なカオスに突きあたることになる。『ヴェルト』紙の編集者であるシュテファン・アウストは「数値の迷宮」について語っている。おそらく彼は気づいたに違いない。そもそも、事態の責任を担っているドイツの組織や各省庁が、いつでも統計局を参照しながら散漫な情報を発信しているということを。もしこれらの組織が完全に無能であるならば、そんなものは放っておけばいい。しかしそれらが、自分の知っていることを言おうとしていないとするならば、こういう問いが浮かび上がってくる。何のためにそんなことを。そこにある政治的意図は何なのか。
 アウストは数多くの同僚たちと自分で調査として、相対的に根拠となりうる数値の資料を発表した(『ヴェルト』紙二〇二〇年九月八日)。まず彼は、ドイツ全体における死亡率という観点から、二〇一七年と二〇一八年と二〇二〇年の上半期を比較したが、それぞれに0.59、0.6、0.58とほとんど差はみられなかった——むしろ二〇二〇年は低い数値であったのだ。さらに月別の比較をすると、二〇一八年三月が突出していた(一〇七一〇四人の死者数)コロナが最大に猛威をふるっていたときの死者数は、はっきりとそれ以下であった。二〇二〇年三月に八七二八八人、四月に八三六〇五年である。
 しばしば「誹謗中傷されているスウェーデンの数値とドイツの数値を比較してみると、わかったのは、スウェーデンにおいては明らかにドイツよりも死亡率が低いということである。確かにスウェーデン国内での比較においては二〇二〇年は最悪の年であるのだが、しかし二〇二〇年の死亡率は0.48%で、なおもドイツの二〇二〇年の数値0.58%を下回っているのである。スウェーデンの社会はドイツよりも平均年齢が若干低めである。二〇二〇年におけるスウェーデンの超過死亡は、ほとんど介護施設における状況だけを原因としている。それに対応して、スウェーデンにおける平均的な死亡年齢は八六歳で、明らかになおドイツ(だいたい八一歳)におけるよりも高いものとなっている。
 ドイツの政治は、このドイツにおける「よい」数値が「規制措置」によるものだと妄想している。しかしながら、この北欧の国に目を向けるのであれば、メルケルとシュパンとゼーダーは彼らのやっているコロナ=テロにおいて非常に分が悪いと言わざるを得ない。というのも、いかなるロックダウンもマスク着用もなかったスウェーデンにおいて、その最悪の月(二〇二〇年四月)で比較しても、ドイツよりも高い死亡率となっていないし、さらにほとんどすべての他の月においても、ドイツよりも数値がよいからである。
 ほかにも比較可能はほとんどの国において、コロナ状況下における死亡率の数値は、ドイツやスペインやポルトガルよりも良好であり、イギリスやオランダやオーストリアやアメリカ合衆国にさえも、明らかに大差はないのである。
 ヴェルト紙の数値は、よく調査されているように思われ、他の統計と比較をしても、たとえばユーロモモの数値と似たような結果を伝えている。後者の欠陥はドイツの全体ではなく、ヘッセンとベルリンという連邦州だけが顧慮されていることであるが。

いいなと思ったら応援しよう!