スチャリット・バクディ, カリーナ・ライス『コロナのマスクを剥ぐ: 新たな数値、データ、背景』①

Dr. Karina Reiss, Dr. Sucharit Bhakdi, Corona Unmasked: Neue Zahlen, Daten, Hintergründe, Goldegg Verlag GmbH, 5/2021

『コロナのマスクを剥ぐ: 新たな数値、データ、背景』、スチャリット・バクディ, カリーナ・ライス、2021年5月

はじめに

読者の皆さんへ
 誤解を避けるために言っておきましょう。この本は一般向けの科学本であり、日常的に医学的な専門論文を読むことがないような人々のために書かれています。
 私たちは科学者として、この一年間、寸暇を惜しみながら他でもないコロナというテーマを取り扱ってきました。世界中の高名な医者や科学者と絶えずやり取りをしながら、科学的根拠をもった情報を交換してきましたが、この結果を、ほとんど国民が知ることはありません。
 依然としてそれによって、たくさんの同胞たちが不安や恐怖を抱えたままです。政治も当該官僚もメディアも、きちんとした説明をしてくれてはいないのです。一体いくつの波がこれからやってくるのか。ワクチンが唯一の救済手段なのか。いつになったらこのパンデミックは終わるのか。
 この本は完璧さを要求することもなければ、唯一の真理を伝えることを追い求めるものでもありません。私たちがやろうとしていることは、メインストリームのメディアにおいて言及されることはないが、状況判断をするためには絶対的に知られなければならないような事柄を開示することです。どんな人間でっても、自分の手で意見を練りあげていくことができるような状態におかれなければならないのです。
 私たちが追求するのは政治的議題でもないですし、私たち自身、政治的に右派でも左派でもないし、ましてや上層や下層でもありません。私たちが感じているのは、何の根拠もないパニックを広げるのではなく、人間のために役に立ち、事実を見つめることを可能にするような科学に対する義務だけなのです。
 私たちの心のうちで大事な場所を占めていたような人々が、私たちのもとを死んで去っていくことは悲しいことではあります。すべての個人に襲ってくる運命の過酷さというものは、痛みをともなった喪失です。しかしながらにもかかわらず、ここで私たちが忘れてはならないのは、死は生の一部であるということです。死を前にして不安になることをやめてしまったら、私たちには何が残るというのでしょうか。生きるということにどれほどのリスクがつきまとっているとしても、私たちは生の全体を見渡すということをから目を背けてはいけません。私たちが希望は、この本がそのための助けとなることです。私たちが望んでいるのは事実に基づいたやりとりであり、それによってこそ、すべての人間が一致することのできるような地平にさまざまな仕方で近づいていくことができるのです。
 一連の基本的な説明については、私たちは最初の本ですでに説明をしましたので、ここではそれを詳細には繰り返しません。その代わりに私たちは、この間に登場してきた新たな数値や事実や背景について解説していきますが、そこからどのような結論が導かれうるかについては、読者の判断に委ねたいと思っています。

序文

 一つのロックダウンからさらなるロックダウンへと突き進んでいくことを回避したい。そういった議論を喚起するために、私たちは2020年5月に『コロナ: 誤報?(Corona. Fehlalarm?)』(邦題:『コロナパンデミックは、本当か? コロナ騒動の真相を探る』)という本を出版した。政治的指導者によって「世紀の大災厄」と名づけられた危機にあっては、さまざまな分野の専門家たち(医学、介護、経済、心理学、社会学などなど)が一つのテーブルについて、社会のために可能なかぎり最善の答えを見つけようとするだろう、当初ひとはそう期待していたかもしれない。
 けれども対立するような議論は望まれることはなかったし、残念ながら事態は、まったく違った流れを辿っていくことになった。その代わりに私たちは、これまでおそらくもっとも極端な夢のうちであっても思い描いたことのないような「ニューノーマル」のうちで生活することになったのである。
 きちんと一世帯の両親だけがその子供たちと一緒に散歩しているかどうか、誰かがマスクを曲がった仕方で顔につけていないか、実際にそんなことを監視するために、警察官は公園や子供の遊び場を巡回することに時間を費やすことになった。たくさん雪の降った2020/2021年の冬に、そりが禁止され、またスケートは罰金の対象となった。また二人の若者が、彼らが雪合戦を「けしかけた」という理由によって、11000ユーロの罰金を支払うことになった。世間の評判において、彼らは犯罪者と変わらないものとなってしまった。義務感の強い高齢者の介護士は、外出自粛がまだ終わっていない時間帯に、ちょっとだけ早く仕事を始めてしまったことによって、340ユーロの罰金を支払わねばならなかった。デュッセルドルフでは、ちょっとでも立ち止まっていることが禁止になった。もちろん散歩はしてもよい、しかし公園のベンチで休憩することも、立ち止まっていることもしてはいけないというのである!何たることか――どこを見渡しても他の人びとが近くにいないにもかかわらず、である。市の公安局は罰金を徴収し、それをせっせと分配するのにいそしんだ。
 聞こうとしないものには感じてもらうしかない。電車のうちで自閉症の10歳の子供を、彼がマスクをしていないからという理由で罵倒し、さらには殴打した男。彼の思いは、この言葉に最も忠実なものであった。重要なことは「態度を示すこと」である――しかも正しい態度を。そこでは意味や事実というのはもはや重要視されることはない。このような部分的には狂信的となった信仰をめぐる戦争が、社会を、友人関係を、家族を引き裂いた。
 これらすべての出来事は、もう一度これまでの顛末を見つめ直すだけの十分な理由となる。というのも、来たる世代はこう問いかけるだろうからだ。そもそも、どうしてこんなことが起こりえたのだろうか、と。

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