昭和末期、ゲームを持たない僕は、小さな冒険王だった

昭和の終わりごろ、子どもたちの間ではTVゲームが絶大な人気を誇り、その熱気が世の中にも少なからず影響を及ぼしていた。新作ソフトが出るたびにテレビや雑誌で話題になり、クラスの男子は誰もがゲームの話に夢中だ。
だが小学四年生の僕は、家庭の事情でゲームを持っていない。お小遣いもゼロに等しく、家の電話を勝手に使うことすら制限されていた。
まるで“遊び”というものが遠くにあるような暮らしだが、どうしても友だちのゲーム談義に混ざりたい。誰がボスを倒したとか、どんな裏ワザがあるのかなど、聞くだけでもワクワクするのだ。

そんな思いが募った放課後、僕は近所の小さな書店へ足を運んだ。
数日前に立ち寄ったとき、奥の棚にゲームの新作攻略本が並んでいるのを見つけてしまったのだ。たった数ページでも目を通せば、実際にプレイしたわけではないのに、なぜか“自分もゲームをしている”気分になれる。
イラスト付きのマップやアイテムの性能を知るだけでも、明日の教室で友だちの話に少しでもついていけそうだった。

ところが数ページを読み進めたところで、店員の静かな声が飛んでくる。
「お兄ちゃん、買わないなら戻してくれる?」
僕はハッとして攻略本を閉じ、急いで棚に戻した。そもそもお金など持っていない。家にゲームがないからこそ頭の中で夢を膨らませたかったが、そんな理屈は店には通用しない。うなだれて店を出るしかなかった。

夕暮れの商店街を歩いていると、どうにもならない悔しさが胸の奥でじわりと広がる。遊びにお金を回せない暮らしでは、欲しい情報をすぐ手に入れる手段は見当たらない。必要なものは最低限に限られ、どこかで我慢するしかないと心得ている──それが、僕の日常だった。

けっきょく僕が行き着くのは“我慢する”という方法だ。もしクラスの誰かがあの攻略本を買っていれば、明日見せてもらえるかもしれないし、断片的にでも話を聞けば“持っている気分”に近づける。大人から見れば些細なことかもしれないが、ゲーム談義の輪に入れない子どもには切実な問題だった。

 夜、布団にもぐり込むと、僕は少し悔しい気持ちを抱きながらも、ほんのわずかな胸の高まりを覚える。「手に入れるか、それとも諦めるか」という単純な選択ではない。むしろ「どうやって粘って、いつかそれを思いきり掴もうか」という思案こそが、僕の頭をめぐり始めるのだ。

そして、そうした日常の不便さが、ある意味で子どもらしい冒険心をくすぐるものでもあった。明日になれば、ゲーム好きの友だちが誰かしら新情報を持っているはずだ。運が良ければ、一緒に攻略本を覗かせてもらえるかもしれないし、話の断片を必死で想像してつなげば、いくらか疑似体験もできる。

インターネットなど影も形もなく、大規模な中古書店で早く安く本を入手する選択肢もなかった昭和末期。お金のない子どもにとっては、“待つ”しか術がなかったのかもしれない。
けれど、いつか思いがけず手が届く瞬間や、ふと新たな扉が開くときが訪れれば、この“待ち時間”が何倍ものワクワクへと変わるに違いない。
僕はそんな予感を胸にまぶたを閉じる。明日の教室でチャンスをつかむ瞬間こそが、本物の小さな冒険になるのだ。

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