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ツイート経済論

突然ですが、今は超円安の時代だと言われています。
今日(2024年6月7日時点)で1ドル157円。手数料なしで考えて、1ドルを手に入れるのに157円費やす計算ということですね。それはそう。

少し前、たとえば東日本大震災があった2011年ごろなんてのは、1ドル70円台という超円高の時期が長く続いていました。そんな時に日本に観光に来ている外国人を見ると、「金持ちなんだなぁ」などと思ったものです。
もっと前、私が子供の頃は1ドルが90〜100円を行ったり来たりしていた時期もありました。その頃も円高だと言われ、マクドナルドのハンバーガーが65円で売られていたりしました。

超円安の今、「100円」というお金の価値はどう変わったのでしょうか。
少し前なら、100円と1ドル札+40セントくらいを交換できたのにもかかわらず、今では100円では1ドル札1枚すら手に入れることはできません。では、「100円」の価値は落ちたのでしょうか。

様々な切り口からの考え方はありますが、100円は100円なのです。絶対的な価値としてはなんら変わりはありません。ただ、外貨との相対的な価値でみた場合、下落していることは明白であり、加えてそれに伴う原料費高騰などにより100円で手に入れられる商品も減ってきていることは確かです。つまり、その時の状況によって100円の持つ効力は異なるというわけです。

とまあ、ここまで前置きをしておいてなんですが、今回は別にお金の話をするわけではありません。
タイトルにもあるように「ツイート」、もっと広く言えば「発言」についても為替相場のようなものがあるのではないかと考えました。

思い浮かべて欲しいのですが、友人関係の中でも、太郎さんが言っても軽く受け止めてしまうけど花子さんが言うのなら深刻に受け止めなきゃいけない、みたいな風潮ってありませんか?

仮に同じ趣旨の発言をしていたとしても、発言者によってその説得力や重みが変わってくると言うのは誰しも経験があることかと思います。
考えてみれば妙な話です。おそらく太郎さんと花子さん、どちらかというと花子さんの方が日頃の行いに筋が通っているなど一目置かれる存在なのであろうと推測できますが、言っていることは同じなのです。それなのに、効力が変わってくるのです。

これを円相場で考えると、太郎安・花子高といった状態でしょうか。太郎さんの100円と花子さんの100円とでは買える品物に差が出てくるわけです。

太郎さんと花子さんの違いが普段の行い、すなわちキャラクター的なものに起因すると挙げましたが、為替相場に差が出るのには他にも理由が考えられます。一般的に、多く出回るものには価値がつきにくくなると言われますが、太郎さんが普段から軽口ばかり叩いて多弁なのに対し、花子さんが寡黙で、ここぞの場面でしか口を開かないのであれば必然的に花子さんの発言は重んじられやすくなります。

これって、実はSNSでもすごくよく当てはまるのではないかと思います。
一概には言えませんが、様々な要因が複雑に絡み合った結果、同じようなツイートをしたところで感心を得る人、一方で疎まれてしまう人、「いいね」や「リプ」などでリアクションが可視化されるだけにそういった違いが浮き彫りになってしまうのは皮肉なものです。

誤解してはいけないのは、ツイート安が悪いわけでは決してないのです。むしろ自分も「ちぴ安」だと自認しています。だから卑屈になるなどというわけではなく、ちぴ安ならそれなりに、理解を得られるような丁寧なツイートをしなければならないし、必要な範囲での謙虚さもいるだろうなという一種の自衛や心構えを意識的に施せば良いだけのことです。よくないのはツイート安を自覚せずに、いささか傲慢な物言いをしてしまうケース。相対的に価値が下落している通貨を少額持ち込んで、高い品物との交換を迫るようなものです。

逆にツイート高の人は、それはそれで大変な立場なのかもしれません。人が感じる価値というのは「なんとなく」のイメージに基づくケースがほとんどです。(その「なんとなく」を醸成することがそもそもすごいのですが)よって、ツイート高であることを自覚せずに不用意なことをつぶやいてしまうと一気に暴落するリスクを孕んでいます。

そんなことを考えると、人間関係の煩わしさを改めて感じてしまうわけですが、情報の受け手としては極力「発言の趣旨」を正確に汲み取って、発言した人が誰かではなく主張の内容を自分なりに吟味し、正確に役立てられるよう賢くならねばならないわけですね。知らんけど。

と言いつつ、タイムラインに流れてくるツイートを見て、いいねボタンを押すときは「これ、誰が言ってんだ」と確実にチェックする癖が抜けきらないのでありました。精進しましょう。


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