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言葉には賞味期限があるという話
Twitterやnoteの下書きにいちど眠った言葉や文章は、ふたたび電子レンジであたためても、どうやったってもう美味しくはならない。そんなふうに、もう美味しく食べられなくなってしまった文章は、わたしの中にたくさん、たくさんある。
だからこそ忘れてしまわぬように、感動したり切なくなったり楽しいと思うことは文章に書いて残したいと思うし、誰かに伝えたいことがあれば、すぐにでもメッセージを飛ばしたり、時には長文の手紙を書いて渡したりもする。
文章を書くとき、私は想いのすべてを書く。だからもう、本当に、noteを介して人に会うのは正直にいうとかなり恥ずかしい。文章とリアルのわたしにはギャップがあるし、ここの文章を読めば、私のことがすべてわかると思っているからだ。
そんな照れくさい思いをしてまでも文章にして残したいと思うのは、やっぱりそうして書いたものを見て誰かが何かを感じてくれることが嬉しいからで。自分の想いが伝わったり、ちょっとでもワクワクしてくれたり、文章を書きたいと思ってくれたり、海外に行きたくなったり、とか、やっぱりわたしは誰かの人生を上向きにしたいなぁと思うのだ。
それに、つくりだした「完璧」よりも、不器用な部分や絞り出した勇気などに人は惹かれてしまうものだと、しみじみに思う。
文章とは、そういうものだ。その人のリズムや溢れ出た感性が全部入り込んで、書いた人の“ほんとう”に触れられるもの。文章が繋ぐ出会いは、やっぱり貴重だ。
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誰かが自分を想って書いてくれる文章が好きだ。だから自分が何かを人にあげるときは極力手紙を添えたいし、人から何かをもらうとき、真っ先に手紙を探してしまったりもする図々しさも持ち合わせている。(笑)
この前ハノイに住んでいたときに出会った友人が、わたしのことを文章に書いてくれた。
「恥ずかしい日記を書いた」と、その人はわたしにそっと記事を送ってきて、何が書いてあるかもわからずに、受け取ったわたしは何気なくそれを読み始めたのだけれど、読みながらポロポロと泣いてしまった。
文章をこうして書いて、人に見られる照れ臭さも知っているし、ドキドキする気持ちも知っている。どんなふうに書こうかなぁってたくさん悩んで書いた背景だってあるだろう。
それがもう、なんだかすごく嬉しくて嬉しくて。なんどもなんども読み返した。
こんなふうにそのことを文章に書いてしまうと怒られそうだけれど、照れながらもちょっと喜んでいる顔が想像できたので、良しとする。たしかそういう人だったはずだ。(と、思う)
飾らずに、嘘がつけない不器用さがちょっと出ている彼の人柄は、誰からも愛される。飾る人ばかりだった社会にちょっと疲れてしまったとき、あまり人に会いたくないなぁと思うようなときでも、会いたいなぁと思えるような人だった。
これから先、わたしが何かにつまずいたり、落ち込んだり、自分がわからなくなったりしたときに、こうして彼が書いてくれた文章は、わたしを助けてくれるものになると思う。
こうした文章を読むたびに、動画や音声の発信がどんなに流行って「長い文章はいまどき読まれない」などと言われる未来が来ても、文章だけはなくならないだろう、なくなって欲しくない、と思うのだ。
この文章を彼に送ったりはしないけれど、賞味期限が切れる前に、今のうちに書き留めておく。
そんなふうに考えるGW10連休の初日。文章に残したいと思える感情に出会えるといいなぁ、ワクワクです。フィリピンとベトナムに行ってきます。
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