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カメラの向こうにあるもの(全文公開) - 週末1000字エッセイ#48

 1827年、ニセフォール・ニエプスが世界で最初の写真を発明してから、200年近くが経とうとしている。彼が撮影した「ル・グラの窓からの眺め」は、1枚を写し取るのに8時間もの露光が必要だったという。粗い画質ながらも、光と影が交差するその一枚には、初めて世界を「定着」させた驚きが詰まっている。やがて、ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールがダゲレオタイプ(銀板写真)を、ウィリアム・ヘンリー・タルボットがカロタイプ(ネガポジ法)を発明し、写真技術は急速に進化していった。そして1889年、イーストマン・コダック社がロールフィルムを販売し、写真は一部の専門家の手を離れ、大衆のものとなった。

 その時代から約120年。2024年現在、写真は日常の中に深く溶け込んでいる。スマートフォンの普及率は日本で約97%である。誰もがポケットにカメラを携えているこの状況を、ニエプスは想像しただろうか?

 写真にはさまざまなジャンルがある。風景写真やスナップ写真、ポートレートだけでなく、商業写真や報道写真、そして芸術写真も含まれる。それぞれが異なる目的や視点を持ちながら、一瞬を切り取るという点では同じだ。さらに、スマートフォンで撮った今日のランチの1枚もまた、確かに写真のひとつだ。そのさりげない1枚にも、撮影者の気持ちや記憶が込められている。

 わたしも写真を撮る人間だ。幼い頃から写真は身近な存在であり、何気ない瞬間を切り取ることに楽しさを見出してきた。旅先での壮大な風景、季節の移り変わり、街角の風景、そして家族との穏やかなひととき……。これまでにたくさんの場面をカメラに収めてきた。
 カメラの形状や技術が変わっても、シャッターを切る瞬間の胸の高鳴りは変わらない。記録としての写真も、表現としての写真も、わたしにとってはどちらも欠かせない存在だ。

 このエッセイを書きながら、ふと小学生の頃の記憶が蘇った。初めて自分専用のカメラを手にした日のことだ。両親から贈られたFUJIFILMのコンパクトデジタルカメラ。箱を開けたときの新しい機械の匂いと、ピカピカのカメラを手にした喜びは今も忘れられない。
 その年の年末、家族が集まる夜のひとときにシャッターを切った。温かい光に照らされたテーブルには色とりどりの料理が並び、家族の笑顔がその場を包み込んでいた。何気ない日常のひとコマに、レンズ越しの光が静かに映り込んでいた。

 その1枚をプリントしたわたしは、それを毎日かばんに入れて持ち歩いた。写真に写る家族の笑顔や部屋を満たした光景が、わたしにとって心のお守りのように感じられたからだ。何度も取り出して眺めるたび、あのときの温かな空気が蘇り、心をそっと支えてくれた。

 わたしにとって写真とは、そんな「お守り」そのものなのかもしれない。心が動いた瞬間に切り取った写真たちは、わたしの人生の軌跡を刻むものだ。時が経つにつれ、記憶は少しずつ薄れていく。それでも、写真を見ればその記憶が鮮やかに蘇る。わたしにとって写真は、過ぎ去った時間の鍵であり、未来のわたしへの贈り物でもある。

 写真を撮るという行為は、単なる記録以上の意味を持つ。それは「生きた証」を紡ぐ行為であり、自分自身と向き合う時間でもある。一瞬を閉じ込めた写真は、いつか振り返るときに、今のわたしをそっと支えてくれる光となるだろう。

 これからも、わたしはシャッターを切り続けるだろう。そのたびに増える新しい「お守り」が、どんな未来を照らしてくれるのか。それを楽しみにしながら、わたしはこれからも写真を撮り続ける。

5年前に書いた わたしと写真のお話

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