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空白の意味
友人が「欲しいものがない」と言った。そして続けて、「そうなったとき、生きる意味がわからなくなってしまった。今までは欲しいものややりたいことがあって、それを目標に生きてきたから」と話した。
その言葉を聞いたとき、「何か新しいことを見つけてみては?」とか「別の目標を作ってみては?」といった言葉は、きっと無意味だと思った。そんな簡単な話ではないのだろう。だから、わたしは「そうねぇ……」と曖昧に返した。
生きる目的とは、何なのだろう。
わたし自身、長い間「生きる意味を探すこと」そのものが生きる目的になっていたように思う。なぜ自分がこの世に存在しているのか、その意義を考え続けた。生まれてきたことには何か理由があるはずだと思いたかったし、それを見つけられないことが葛藤でもあった。
何度も自問自答を繰り返し、「これだ」と思える答えを見つけるたびに、それは砂の城のように脆く崩れ去った。そのたびに、心にぽっかりと穴が開くような感覚を味わった。
だからこそ、わたしは写真を撮り、文章を書いてきた。それは、何かを創造することによって、この世に少しでも「自分が生きた痕跡」を残しておきたかったからだ。ポジティブな意味合いよりも、むしろ耐え難い生に対する、ネガティブな感情の供養に近いものだったのかもしれない。
一方で、友人の話に出てきた「目標」は、より具体的で、手に取れるものだった。たとえば、欲しいものを手に入れる、やりたいことを叶える。そうした明確な指針があるからこそ、前を向いて生きてこられたのだろう。それは、わたしの求めている「目標」とはまったく違う性質のものだった。わたしの目標は、まるで空気のように形がなく、掴もうとすると指の隙間からすり抜けてしまう。
とはいえ、わたしにも目の前のものを必死に掴み取ろうとした瞬間はあった。受験や資格のために勉強したり、好きな人に想いを伝えようとしたり、趣味に没頭したり、誰しもが経験することだろう。そういうとき、人は「生きる意味」など考えもしない。ただ夢中になって突き進む。その間は、世界が少し色鮮やかに見え、自分の内側が熱を帯びる。時間が足りないと感じるほど、全身で「生」を実感するのだ。
けれど、その熱が冷めたとき、人はふと考え込んでしまう。生きるとは何なのか、と。
人類は、より良い暮らしを求め、知恵を絞り、進歩を重ねてきた。それでも、永遠に続くものはない。生きているものは必ず死に、世代を繋いだとしても、その先にいる者たちもまたいつかは消える。地球の歴史を振り返れば、無数の生物が誕生し、絶滅を繰り返してきた。我々人類も、その流れの中で、いつか滅びる運命にあるのだろう。
生きることは、苦しみを伴う旅路なのかもしれない。 幸せを手に入れたと思っても、その感覚はすぐに薄れ、新たな何かを求めてしまう。苦しみがデフォルトであるならば、なぜ我々はそれでも生き続けるのか?
けれど、その問いに明確な答えはない。人はただ、生きている。誰もが何かを求め、掴み、失いながら、前へと進んでいく。その繰り返しのなかで、ふと立ち止まる瞬間が訪れる。「次に何を目指せばいいのか」「この先に意味はあるのか」と考えてしまうときが。
そこには、ぽっかりと空いた空白が生まれる。目の前に掴むものがなくなったとき、人はその空白を「空虚」と呼ぶのかもしれない。
空虚であることは、本当に悪いことなのだろうか。
人は、何も持たないことに不安を覚える。それは自然なことかもしれない。でも、空虚とは「何もない」のではなく、「まだ満ちていない」だけなのではないだろうか。空虚を埋めようとするほど、かえって焦りや不安が募ることもある。しかし、空虚を「余白」として捉えれば、そこには新しい何かが入り込む余地が生まれる。沈黙があるからこそ、言葉が響くように。
すべてを埋め尽くさなくてもいい。焦って何かで埋めようとしなくても、ぽっかりとした空間の中に、いつか風が吹き抜ける瞬間がくる。
もし、今あなたの心が空っぽに感じられるなら、その空虚を無理に埋めなくてもいいのかもしれない。ただ、そのまま抱えて生きてみる。すると、思いがけない何かが、そっと入り込んでくることもあるから。
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