いつか書きたい「音」のこと
あるときある「音」を聴いたことが、私の大部分を形成している。
その「音」については、いつかどこかで書きたいし、書きたいと思いながらここ数年過ごしてきた。
でも直接書き残すことは一生ないと思う。少なくとも「説明」はしないだろうし、できない。
高校生の頃までは、その「音」を発端として、自分の周りに起きる出来事を抱えきれずにいた。抱えきれず、かと言って誰にも言えなかった。それでも「抱えきれないことがある」ということは誰かに知っておいてもらいたかった。Twitterに感情をぶつけては、自己嫌悪に陥ってツイ消しする、ということを繰り返していた。
今思えばそれが良かったのだと思う。幸い私は人に恵まれていた。そのツイートを見た人は、ちゃんと私に直接「また荒れとったやん笑」と声をかけて揶揄ってくれた。「何かに気を病んでいる」と周りが認識し(てくれ)ている。そう自分でもわかっていることがたぶん重要だった。
大学生になると、同じ境遇の子が、人前で堂々とその話をする場面に遭遇した。思わず「私も!」と声をかけて、初めてはっきりと他人に打ち明けた。真正面から向き合って、それを原動力に変えているその子を見て、考え方が変わった。それから、本当はみんなに知ってもらいたいのかもしれない、と考えるようになった。
その子といろんな話をして、初めて自分が何も知らないことに気づいた。その「音」はいつ、どうして、どういう風に生まれて、今どうなっているのか。触れてはいけない、聞いてはいけないことだというのが暗黙の了解だった。断片的な情報から色々と察してきただけだった。むしろ私は知るべきじゃない、とさえ思っていたことにも、このとき初めて気がついた。
このときからぼんやりと、どこかに書きたい、と思うようになった。そしてそう思うのと、いつも同時に、「それは無理だ」と悟って泣いた。
だから、ここではその「音」について書く代わりに、私の好きなものについて書きたいと思う。
なぜか。
その「音」がなかったら、私は今の自分とはまるっきり違う趣味、思考をする人間になっていたに違いない。その「音」がなかったら、メンタルは今よりもっとずっと弱く、視野はかなり狭く、想像力に欠けた人間だったろうと思う。
私は当たり前に、その「音」と共に生きる方法を考えた。その「音」を自分の身のなかに引き入れて、違和感なく生きられるよう願った。だから、考え方も好きなものも、その「音」と共存するものしか選ばなかった。
つまり直接その「音」には触れなくとも、考えたことや好きなことを書いていけば、自然とその「音」を象っていってくれるはずなのだ。そしてそういう書き方でないと、その「音」については一生書けない。書きたい、という熱をずっと帯びたまま生きることになる。それは嫌だ。
今、「音ってなんなんだ、訳わかんないなぁ」と思われていると思う。笑
でも始まりにこう示しておきたい。
いつか書きたい「音」のこと、書きます。