『鼓動』
まえがき
こんにちは。ピヨッペです。自分なりに純文学を書きました。5000字くらいです。よろしくお願いします。
本編
朝靄が立ち込める頃、鋭角の日差しが淡く降り注いでいる。ペダルを漕ぐ私の脚は規則的に駆動し、さほど近いわけでもない最寄り駅に向かっていた。ハンドルを握る指に、冷気を孕んだ空気が痛い。手袋を着ければ良いだけの話ではあるが、抗えるはずもない気候に、屈することが悔しい。厚手の制服のズボンさえ、繊維の細かい網を冷気が貫通してくる。勢いよく前進などしなければ、さほど冷えた空気も気にはならないのだろう。
やや息が上がる。額と首元が汗ばんで、上気で頬が染まっていることは、鏡を見て確認するまでもない。サドルから腰を上げ、トタン屋根の駐輪場へ自転車を転がす。放置され、常駐しているボロの自転車を除いて、私の自転車は二台目だ。最も右端に自転車を停め、カギを引き抜いて無人駅のホームへ向かう。開閉するような改札はなく、一本足で自立したICカードリーダーが、待合室からホームに向かう道中にあるだけだ。通路とも呼べないほどの短い通路を抜けて、開けたホームに抜けると、女生徒の姿が目に付いた。制服の上にコートを着て、更にマフラーと手袋を身に着けている。着膨れの隙間から見える制服は、私の通う学校のものとは違うようだった。彼女もまた、上気し頬が赤くなっている。冷えた汗が寒さを助長させるのか、小さく背を丸めている。吐く息が白く、伸びて、霧散していく。特段目立った外見を持たない彼女であったが、何故だか私の目は彼女に釘付けになっていた。斜め後ろから見る彼女の輪郭は、澄んだ空気と日差しで境界が曖昧だった。鋭角の日差しの眩しさのせいか、彼女自体が持つ得も言われぬ性質のせいか、まったく判断がつかないがとにかく直視することがはばかられた。とはいえ、完全に目をそらすことはできず、ホームを直視した視界の端のほうで彼女を薄く捉え続けた。田の広がる平坦な土地にひとつ鎮座する古びた駅のホーム。そこから見る景色はとても退屈で甲斐がない。通勤に使われているのであろう何の変哲もない乗用車が奥手の県道を行き交う。あと3分も待てば下りの電車が来る。そして、例のごとくすし詰めになって運ばれていくのだろう。
話しかけてしまいたい。ただ、それがどんなに単純で容易であるかと同時に複雑で困難であるかを私は知っている。私が彼女に対し、いかに品性と知性を肌で感じて話しかけようとも、異性であることが大きな隔たりになる。硬派ではないと自認していても、軟派者と彼女に判断されるのはどうも腑に落ちない。目立った外見ではないではないにしても、彼女が美しく見えることは確かなのだ。華やかな絵画の美しさとはまた別の美しさを持っている。とにかく目を引く魅力を内包していることだけは外見から感じ取れる。そういった絵画もこの世には無数に存在するのだろう。美しいと評価して、唸って感服すればそれでいい。だが、彼女は絵画ではない。実存がある人間だ。主観があって、人生があって、考えることのできる、まごうことなき人間だ。私という存在があって、彼女という存在がある以上、話しかけてしまえば途端に人生の中に新たな存在の軸を打ち立ててしまうことに他ならない。彼女にとって、それがごく微小で取るに足らないものであっても、記憶に残らないものであっても、今の私にはとてつもなく巨大な一本の軸として立っている。心象の世界で、田の平がった平坦な土地に縦長の雑居ビルが堂々と居座っている。臆病な自尊心と尊大な羞恥心を持った虎がビル内を闊歩している。恐れおののき逃げ出す人間もいれば、始末しようとする人間もいる。滑稽だと笑う人間もいれば、愛くるしいと撫でに行こうとする人間もいる。そんな虎や人間なぞ知ったことかという態度で女の尻を撫でる男すらいる。混然雑多とした騒々しいビルは田畑の中では似つかわしくない。似つかわしくはないが、確かな人の存在が、激しい生命力と乗用車の往来の可能性を曖昧にかたどっている。
軽快な旋律ののち、アナウンスの声が聞こえた。気付けばまばらな人影があって、鈍い振動をかすかに足と耳で感じていた。電車が停まった。私は私に最も近い乗車口から車両に入り、彼女は元居た場所から微調整をしてほかの乗車口へと吸い込まれていく。
ギチギチに詰まった車両。酸素が薄く、バクテリアが繁殖したかのようないやな臭いと不愉快なぬるさ。身体のどこかが誰かと接触してないときのない時間の中で、去ってしまった機会を無念に思う。ひたすら逡巡して右往左往しているうちに、可能性の芽は潰えてしまった。同じダイヤで、まったく同じ道を、まったく同じ速度で進んでいるのに、車両が異なっているというただ一点の相違だけで無意味なものになったように思える。今日に限って言えば、彼女と私の間でなにかが交差することはないのだろう。この先また見かけるとも限らない。だが、同じ駅を利用する以上、邂逅する可能性は全くないとも言い切れない。そう理屈で分かっていたところで、無常感はぬぐえないし、不確実性があるのだからなおさらだった。バクテリアのにおいに混じって、時折フェミニンなにおいを感じた。目の前の有象無象の粒度が上がっていく。柔らかな流線を描いた黒い楕円が、見下ろした先に存在していた。後頭部の下部で髪が束ねられ、頭頂の毛髪が発色よく艶めいている。先ほどから肌で感じていたものの感触の正体がわかったことと、鼻腔を貫くフェミニンによって、私は激しく劣情を催した。心象雑居ビルの入居者は既に限度を超えている。改装工事も転居も間に合わず、新たな店舗や事務所が縦に積み上げられていく。ビルが高くなっていけばいくほど、そのなかを占めるものは統一感が増していき、雑多な感じはなくなっていった。女の尻を撫でていた男がふんぞり返って支配していた。私はその程度の人間なのだ。いかに品性や知性に魅力を感じると熱弁をふるおうとも、結局のところ外部刺激によって簡単に詭弁だと暴かれてしまう。浅はかで下劣極まりない、徳の低い、人間と名乗るにも値しない肉人形に過ぎない。最も軽蔑すべき種族で、くだらない奴であると内省しながらも局所的に血流をよくしているのだ。ひどく落胆しながらも、やはりそれは理性でどうこうすることはできない。深呼吸をして落ち着こうとすれば、より一層鼻腔の奥にフェミニンが溜まっていく。余計に乱れた息とこころは、誰から見ても滑稽であることは明白だった。背にはドアがあって、目下にはフェミニンがいる。彼女の先には有象無象が所狭しと広がっていて、逃れようのない状況だ。そこにあぐらをかいていることがどんなに快活で気楽なことか。私は息を止めて、次の駅まで目を閉じた。
首から上を真っ赤にして朦朧としていると、停車時の電子音が鳴った。背のほうのドアが開き、一度ホームに降りた。乗車口の端で息を荒くしながら、下車する人々を待つ。この駅では乗車していた8割ほどが下車する。前後の駅と比べてホームも多く、田舎の割には賑わっている土地だからだろう。かといって田舎であることには変わりはなかった。比較的に人口密度が高いだけだ。額に汗を浮かべ、呼吸を整えながら下車する人々を見送る。最寄り駅の彼女もおそらくここで降りたのだろうが、振り返って改札口を眺めようとはしなかった。滑稽で、無様な姿であっても誰も私を気にかけない。私がおそらくそうするように、彼らもそうしたのだろう。所詮、有象無象の一部にすぎないのだから。
もう誰も下りないであろうことを確認して、閑散とした車内に入っていく。追随するように何人かが入り、座席に腰を下ろしていく。落ち着きを取り戻した私はカバンをまさぐってイヤホンを取り出し、耳に着ける。ジャックにプラグを突き刺して、流れるように曲再生の操作を行う。何度も聴いて何の感慨もわかなくなった曲を垂れ流しながら、またしてもカバンをまさぐる。英単語帳を取り出して、赤シートで隠しながら意味の確認をしていく。数分前までのニューロンの発火とは裏腹に、シナプスが殆ど働かなかった。意味があるのか判断のつかない作業とこころの底で思いながらも、指先を動かす単純作業は止まることはなかった。車両が規則的な振動をしながら私たちを運んでいく。時に停車して、また動き出しながらも、決められた道筋を正確に進んでいく。停車するごとに人は増え、肉声の交錯で活気付く。立ち乗りの乗客が瞬く間に増えていって、終着駅間際ではまたしてもすし詰めになっていた。座ることができていて、音楽を垂れ流しながら英単語帳を眺めていれば、全くそんなことはどうでもよかった。刺激の少ない慣れ親しんだものに囲まれながら過ごすことの、いかに快適なことか。感慨さえ湧きはしないが、これで十分だ。十分すぎるほど十分だ。この英単語帳に飽きたらほかに書籍を取り出して読んでしまえばいいのだし、曲に飽きたらまた新しい聞きなじみのないものを聞けばいいだけだ。十分に満足できてしまえる。個人で満足ができて完結できることの、なんと費用対効果の良く、危険を伴わない行為だろう。
ふと、頭を上げると、人混みの合間を縫って、窓から覗く山々が見える。落葉樹の枯れた姿が流れていく。ただ、見つめていた。しばらく進んでも枯れ木だけが並んでいる。手前で談笑する学生の快活の向こうに、陰気な雲と枯れた木があって反比例的だった。
心象雑居ビルの輪郭が曖昧になっていく。往来のない閑散とした建築物として、ただ在るだけになっていく気配を感じた。活力と可能性が死んでいくような気配だった。この感情を黙殺していいのだろうか。また可能性の芽に気付きながらも、潰してしまっていいのだろうか。この気配に向き合うべきではないのか。向き合ったとして、どうしたらいい。どう向き合えばいい。仮に他者の存在に何らかの可能性を感じているとして、私はどのようにしてアプローチをしたらいいのだ。わからない。臆病がビルを占拠している私は、どうすることが正解なのだ。
目前にいる人々が群れを成して移動していく。終着駅だ。人口密度が見る見るうちに薄くなる。改札口の混雑を見越して、まだ腰が重い人々がいる。私もそのうちの一人だ。このまま混雑が収まるのを待つのはいいが、そのあと改札を通ってもいいのだろうか。改札を抜ければ、そのまま学校へ行って、取るに足らない話をさほど仲の良いわけでも悪いわけでもない人とし、いつものように授業を受けるだけで終わってしまいそうだ。そこでの会話や授業で得た新たな知見は役に立たないとは限らないし、むしろ、そこにこそ答えがあったりするのだろう。ただ、私はなにか普段とは異なったことをしなければならない衝動に掻き立てられていた。強く何かを感じても、日常の枠に収まっていては進展がないと、そう思えてならない。私は可能性がニューロンとともに発火している気配を感じた。可能性は火中にある。それはおそらく私の脳内と物質的な近辺にあるのと同時に、対岸の火事でもあるのだろう。日常から逸脱した行動を取ることが今の私には最良の選択に思えた。川を越えて、火中に自らを投げ入れるような危険性を孕んだことをしなければ、このもやもや渦巻くものの実態は掴めないような気がしてならない。私は座席からバネの様に跳ね上がって、勢いよく下車した。
私から見て対岸のホームに、車両が停車しているのを確認した。行き先はさらに下りの方向だろう。我を忘れ、全速力でその車両に駆け込んだ。車両にはだれもおらず、閑散としている。すぐに乗車口のドアは閉じて、電車はゆっくりと駆動する。段階的に速くなる電車の中で私は立ち尽くしていた。これでよいのだろうか。疑問や不安も、恐怖心さえあるが、高揚した気持ちはそれらを覆いつくすほどに膨れ上がっていた。学校へ行かずにさらに遠くへ向かう電車に乗っただけに過ぎない。たかがそれだけのことではあるが、それだけでも十分に冒険に思えた。貸し切りの車内に腰を下ろした。私だけを乗せた、私だけの車両がどこへ向かうのかもわからないがとにかく進んでいく。窓から外を見ていると、なんとなく見知った景色から、未知の景色に移り変わっていくことだけがわかる。窓の外をまじまじと眺め続けた。知らない世界しか広がっていない筈であるのに、何故だか懐かしく思える。期待と不安の入り混じった感情で、こうして外を眺めるのはいつぶりだろう。新鮮さと爽快感が活力を与えてくれる。快活な気分だった。何度か停車して、また出発してを繰り返したが、誰も乗車しなかった。私はいつまでもこの車両で一人だった。人との交流を深層心理で願ったところで、人のいない方向へ進めばそうなることは明白だろう。日常から逸脱した行動の中でも、やはり、自己満足に浸るだけでしかなかったが、もうそれでもよかった。何故だか満ち足りたこの感覚の中で、曖昧にそう思えたならそれでよかった。
一時間にも満たない時間が過ぎたと思う。海が見えた。電車の向かう左手には海が広がっていて、右手には山とその麓には民家が点在していた。海に妙な引力を感じて、次の駅で降りた。冷え切っていて、退屈な駅だった。ICカードリーダーで改札の手続きを済ませ、線路の上にかかる陸橋に向かう。潮風で錆びた陸橋は脆く、歩くたびに振動した。重く、伸びのある音を鳴らしながら、階段を昇っていく。通路から見上げると空は曇天で、風も強く、居心地の良いものではなかった。潮のにおいに誘われて、海へ向かう。近くにその存在を感じるが、距離で言えば、それなりに遠い。この歩幅でと速度で向かうことが、どうにも堪らず、走り出してしまった。広大な海まではほとんど景色が変わっているような感覚が得られない。途方もないような距離があるのではないかと錯覚するが、確かに浜には近づいているらしい。強い風と冷気に身を震わせながら、猛進する。のどが痛い。目に風がしみて涙が出る。全身がとにかく冷たくて嫌になるが、溢れ出る衝動の足かせにはならなかった。
浜を走ると流動性の高い砂に足を取られた。靴下の中へ砂が入ってきて不愉快だった。かいた汗に砂が粘り付いて気持ちが悪い。
海だ。濁った海が大きく波打っている。テトラポッドには流木や捨てられたごみが引っかかっていて汚い。潮風に乗って磯臭さが際立つ。曇天の下にある海は綺麗とはいいがたい。爽やかさとはかけ離れた重厚な雰囲気が支配している。ここまで来て、今、聞こえてくるのは規則正しい波の音だけだ。海の先を見ても海しか見えない。こんなものか、と思わざるを得なかった。極めて肯定的にとらえようと思えば、いくらでも誉め言葉が出てくるだろう。否定的に考えようと思ったとしても、同じく貶す言葉がいくらでも出てくるのだろう。私は正直に、率直に、こんなものか、と思うまでに留めた。時間や身体的疲労に対して得られるものがあまりにも少ないとは思う。それだけの海だった。ただ、それだけだったが、波の音と同じくらいに私の心臓の鼓動する音が聞こえていた。