まったく自由じゃない自由研究を提出していた件について
あなたの自由研究は、ちゃんと「自由」でしたか?
夏休みの宿題として定番の自由研究ですが、先生から「自由研究とは何たるか」の説明をきちんと受けた試しがありません。選択肢を持てるほどの経験を積んでいない子どもにとって、まっさらの「自由」って辛いんですよね。困った末に進研ゼミを引っ張り出し、自由研究アイデアコーナーを参考にした(というか、実験の手法まで丸パクリした)人も多いでしょう。何を隠そう、私もその一人です。
ただ残念なことに、私は化学が好きではなかったんですよね。進研ゼミで勉強していた人なら分かると思いますが、自由研究のオススメとして紹介されているのは、化学などの実験ばかり。学校のほかの子たちも、アイデアがないのか似たり寄ったりの実験をしています(進研ゼミの丸パクリをしていた私が言えることではありませんが)。たまに聞く、自由研究で表彰されたという話に出てくるのも、化学系の実験ばかり。
自由研究とはその名の通り「自由」に課題を見つけて取り組んでいいもののはずです。しかし、いつしか私の頭の中では「自由研究=科学の実験」という方程式が出来上がっていたのです。
そんな思い込みの中で、小学生時代は毎年イヤイヤ実験していました。しかし先日、大学時代の友人がこんな話をしてくれたのです。
「小学生の時、自由研究でナポレオンについてまとめたのが楽しかったんだよね」
目から鱗の発言です。自由研究って、化学以外のことをやってもよかったんですね!長年の思い込みが崩れた瞬間でした。
人間は、知らず知らずのうちに思い込みをつくってしまう生き物です。そして、大抵は思い込みを持っていることにすら気づけません。気づけないからこそ、無意識に根拠のないそれに縛り付けられて辛くなってしまうのかもしれませんね。
これは宿題という小さな枠組みの中だけでなく、社会の中にあふれている偏見という問題にも繋がっているのではないかと私は考えています。自分の「思い込み」と違うものを持っている人を受け入れられない気持ちが、差別へと繋がっていくのです。大切なのは、自分の中に思い込みという枠があることを自覚すること。そして、この枠がない人(=自分と意見が違う人)ならどう考えるかなと想像してみることではないでしょうか。
小学生のころ、実験などしたくなかった私が、自分自身に「『自由研究は実験をやらなくてはいけない』って、本当にそうなのかな?」と問いかけることができていたら、違った結果が得られていたことでしょう。これは小学生には難しかったかもしれませんが、大人になった私たちならできます。何か嫌だと感じる出来事があったら「どうしてそう思うの?本当にそうなのかな?ほかの選択肢はないかな」と自分に問いかけてみると、自分を縛っていたのは自分自身だったと気づけるかもしれません。学生時代を経て社会人になり、たくさんの経験を積んだ大人だけが持っている、子どもにはないもの。それが「選択肢」なのですから!考えることこそ、自由への第一歩です。自分の枠から片足だけでも出てみようとする人、すなわち想像力を働かせ、相手の立場に立ってみようとすることが、自分も他者も自由にする方法なのではないでしょうか。
「多様性を認める」とは難しいことではなく、自分の枠の外に出てみるだけでいいのです。そのためには、まず何が枠になっているのかを知る必要があります。方法はとっても簡単。何かにモヤっとしたら、「本当にそうなのかな?」と、自分に問いかけるだけです。自分と向き合い、きちんと知ることが、結果的に相手を理解することにも繋がるのですね。
この記事が、自分自身と仲良くなるためのきっかけになりますように。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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余談ですが、みなさんの記憶に残っている自由研究はありますか?
この時期になると私はいつも、カップラーメンが一番美味しいのはお湯を入れてから何分かという独創的な実験をしたクラスメイトのことを思い出します。
残念ながら結論は覚えていませんが、義務感から自由研究に取り組んでいた私にとって衝撃の出来事でした。今思っても、彼の自分で課題を見つける力、日常生活の中で疑問をもつ力、それを人におもしろいと思ってもらえるようにまとめる力は天才的です。同じ宿題のはずなのに、私とは雲泥の差であることは言うまでもありません。与えられた課題をいかにワクワクして取り組めるようにするかという考え方も大切だなと、彼を思い出すたびに身が引き締まります。
みなさんも、これには脱帽した!という自由研究があったら、ぜひコメント欄で教えてくださいね。
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