進化する国語教育
「機能」と「表現」
「人はおににかちます、おにはまめにまけます、まめは人にかちます…このようにじぶんでじゃんけんをつくり、人にせつめいをしてみましょう。せつめいするときには…」
毎日聴いている、小学一年生の娘の教科書朗読。
当たり前のように聴いていて、ふと違和感を覚える。
「あれ、こんな内容、私たちも学んだんだっけ…?」
改めて注意深く聞いてみると「じゃんけんのルールを理解し分解して、自分なりのじゃんけんを作ろう。人に物事を説明するときの情報構造はこのようなものだ、実践してみよう。」というのが主旨らしい。
そういえば、この前に朗読していた話も「子供の乳歯が抜けた時に家庭で取るアクションは世界中で異なる。自分はどれに興味を持ったか、その理由を人に説明しよう。」という内容だった。
このふたつの話に共通するのは、「自分で考えたストーリーを人に説明しよう」という点だ。
私が小学1年生の時を思い返すと、学んでいた国語はもっと情緒的なもので、日本語が持つその表現力の美しさや巧みさ、状況や人の心への理解を身に着けさせることを主にしていたと思う。
もちろん、きっとこの子達ももう少し学年が上がれば表現としての日本語を学んでいくのだろう。
よく考えれば、私たちが義務教育の中で学んだ英語は、表現というよりは機能に重点を置いたものであったと思う。大人になって、洋画を観て自分たちが学んできた英語との差分に驚いたりもした。
そう考えれば、表現力以前の段階として機能としての日本語を学ぶのは当然かもしれない。
伝えることの難しさ
日常的な仕事の中で、「人に伝える」ことが苦手な人が苦労しているシーンを見かけることも少なくない。
私自身、仕事においてもこれができるかできないかで進行のスムーズさはかなり変わってくると思っている。表現の豊かさ云々ではなく、何をどういう順序で伝えるのかというストーリーラインの組み立ての部分だ。
直近のニュースでGoogle Homeに同時通訳が実装されたとあった。
自宅でも試してみたが、かなりスムーズに翻訳される。(精度まではあまりわからないけれど…)
子供の朗読とこのニュースから、ふと以前読んだ「日本再興戦略(落合陽一著)」の一説を思い出した。「これからは同時通訳が普及するから語学習得の価値は下がる、それよりも『言語翻訳しやすく話せる能力』が求められる」と。
まさかそんなことまで見越して国語教育が進化しているとは思えないけれど、今後必要な能力になってくるのだろう。
…と思ったところで大きな落とし穴に気が付いた。
そういえば、冒頭で書いたように娘はこのような内容の教科書を何度も何度も繰り返し朗読していた。
あの内容なら実践が重要で、本文の朗読を繰り返すことには意味がないのでは…。
教科書が作られた方針が私の想像通りなら、それが現場まで落ちていないのかもしれない。
今度先生に聞いてみよう、「モンスターペアレンツ」と目されないようにしっかりストーリーラインを作って。
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