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アスリートが抱える「心の様子を他者に伝える壁」:その現状と課題は?
「アスリート」と聞くと、多くの人が強靭な身体と精神力を思い浮かべるかもしれません。しかし、その「強さ」の裏には、プレッシャーやストレスが隠れていることをご存じでしょうか?実は、アスリートが抱える心の課題や相談しづらさは、私たちの日常生活にも通じるものがあります。職場や学校、家庭で心の悩みを共有することに抵抗を感じるのは、多くの人が経験する課題です。本記事では、アスリートのメンタルヘルスの現状を知ることで、自分自身や周囲の人々にとって「心の内を伝えること」の重要性を考えるきっかけとなれば幸いです。
アスリートのメンタルヘルス
競技生活において、アスリートは身体的負荷だけでなく、精神的なプレッシャーにも直面しています。近年の研究では、アスリートの4割近くがメンタルヘルス上の課題を経験していると報告されており、特に競技に伴うストレスや怪我、引退への不安が大きな影響を与えています。
2023年に私たちが発表した研究 (Oguro and Ojio et al. BMJ Open Sport Exerc Med . 2023)では、アスリートがどのような人々や環境に対してメンタルヘルスの相談をしやすいと感じているのか、また実際にどこからサポートを受けているのかについて調査しました。この研究結果をもとに、アスリートのメンタルヘルス支援における現状と課題を掘り下げていきます。
研究結果の概要
この研究では、現役の男性ラグビー選手を対象に、メンタルヘルスに関する相談先の選好と実際の行動を分析しました。その結果、多くの選手が家族や友人、チームメイトには相談しやすいと感じている一方、チームスタッフやメンタルヘルス専門家(精神科医)への相談には大きな抵抗を感じていることが分かりました。特に、チームスタッフへの相談が難しい理由として、競技生活における立場や評価に対する懸念が挙げられました。
結果の解釈と課題
これらの結果は、アスリートがメンタルヘルス課題を相談する際に直面する「心理的なハードル」を浮き彫りにしています。具体的には以下の課題が確認されました:
評価や地位への懸念:精神的な問題を開示することで競技者としての評価が下がるのではないかという恐れ。
スティグマの存在:精神的な悩みが弱さや恥とみなされる文化的背景。
身体的健康の優先:身体的な問題に比べ、メンタルヘルスが軽視される傾向。
これらの要因が複合的に作用し、アスリートが相談する機会を逃しやすくなり、結果的に問題が長期化するリスクが高まります。
他者に相談することの意味
他者に相談することは、単なる問題解決の手段ではありません。自分の心の様子を言葉にして共有し、表現する行為そのものが重要です。このプロセスは、心理的な整理や自己理解の促進につながり、悩みの軽減や新たな視点の獲得をもたらす可能性があります。しかし、研究結果が示すように、多くのアスリートはこの重要なステップに抵抗を感じています。特に、競技者としての評価や地位が損なわれることを恐れる心理が、表現や相談の障壁となっていると考えられます。
知見の応用可能性と社会的展望
この研究の知見は、スポーツ界に限らず、学校や企業などの分野にも応用可能です。例えば、学校では生徒が教師やカウンセラーに心の悩みを相談することに抵抗を感じる場合があります。同様に、企業では従業員が上司や人事部に自分の精神的な不調を伝えることに不安を覚えることが少なくありません。これらの状況に共通するのは、心の様子を言葉にして表現し、他者と共有するための「心理的安全性」が欠如していることです。心理的安全性を高める取り組みは、競技パフォーマンスや学業成績、業務効率の向上だけでなく、個人の幸福感や組織全体の健全性を高める可能性があります。アスリート、学生、従業員が安心して自分の心の悩みを表現し、他者と共有できる環境を整備することが求められます。
Player Development Program(PDP)の可能性
こうした取り組みの具体例として、一般社団法人Japan PDPが運営する「Player Development Program(PDP)」があります。PDPは、「競技人生は人生の一部である」という理念のもと、アスリートを単なる競技者ではなく、人生を豊かに過ごす個人として包括的に支援するプログラムです。キャリア教育、メンタルサポート、財務管理など、アスリートが自己の課題に向き合い、それを他者と共有する力を育む仕組みを提供しています。PDPのような包括的な支援は、スポーツ界に留まらず、教育現場や職場にも適用可能です。このようなモデルを社会全体に展開することで、誰もが心の様子を表現し、他者と共有できる未来を築いていくことが期待されます。
参考文献
Saki Oguro, Yasutaka Ojio, Asami Matsunaga, Takuma Shiozawa, Shin Kawamura, Goro Yoshitani, Masanori Horiguchi, Chiyo Fujii - Mental health help-seeking preferences and behaviour in elite male rugby players: BMJ Open Sport & Exercise Medicine 2023;9:e001586.
一般社団法人JapanPDPについて
2022年度日本スポーツ産業学会・奨励賞受賞論文 日本ラグビーフットボール選手会による Player Development Programの実践報告: