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松山・道後温泉で正岡子規、夏目漱石に出会う

文豪たちが暮らした歴史ある街

松山市駅の「マドンナ時計」と子規句碑

 文学青年だったころからよく文学や文豪にまつわる場所を訪れるのが好きでした。

 太宰治や森鴎外の墓がある三鷹の禅林寺、太宰治の生家である青森の斜陽館、川端康成の墓がある鎌倉霊園、川端が『雪国』を執筆した越後湯沢の高半、あるいは各地にある文学館なども巡ってきました。

 先日は吹奏楽部の取材で愛媛県松山市を訪れました。松山には2年前にも俳句甲子園の取材で行ったのですが、真夏だったこともあり、あちこち散策する余力がないまま帰京してしまいました。

 今回もあいにく雨模様だったのですが(けっこう強い雨で、松山城は断念……)、時間の許す範囲で「文学のまち」を感じてきました。

 松山といえば、やはり夏目漱石正岡子規です。ということで、目指すは日本最古とも言われる道後温泉。

 松山市駅から路面電車である伊予鉄の市内電車に乗りました。駅には『坊っちゃん』に登場するマドンナをモチーフにした「マドンナ時計」、子規の俳句「城山の浮み上るや青嵐」と自ら考えた墓碑銘が刻まれた石碑がありました。

マドンナ時計
子規の句碑と伊予鉄

 ちなみに、松山市内には「坊っちゃん〜」「マドンナ〜」とつくものがたくさんあり、また、俳句のまちだけあって、あちこちに句碑もたっています。

道後温泉にて

 道後温泉駅を出てすぐのところに「坊っちゃんカラクリ時計」があります。30分間隔でカラクリが上演されるそうですが、雨の上、時間もなかったので、平常時の写真を撮って終了。

 ちょうど松山では秋祭りが行われており、あちこちで神輿を見かけました。

 アーケード街では「坊っちゃん団子」を売っている店を見かけました。坊っちゃん団子は三色団子で、小説の中でも坊っちゃんが食べるシーンが出てきます。ぜひ食べたいところでしたが、どうも1本単位では売っていない様子で、数本入りを買って持ち歩く気力もなく(心身ともに疲労が溜まっていて)、また、たったひとりで団子を食べながらアーケード街を歩く気持ちにもなれずに、「こういうところが駄目なところだよなぁ」と思いながらスルーしてしまいました。

 そもそも淋しがり屋のくせに人と一緒に行動するのが苦手というややこしい性格ゆえ、旅先ではよくこういう事態に陥ることがあります。仲間と一緒にわいわいと旅や食べ歩きを楽しめる人が羨ましいです。

 さて、アーケード街を抜けた先に道後温泉本館の建物がありました。写真で想像していたよりも若干小ぶりでしたが、その伝統的かつ複雑な形状には目を奪われました。

 ここに漱石や子規も訪れたのか、と思うと、その当時といま現在の時間の境界が薄れ、ふたつの像がオーバーラップするかのような不思議な感慨がありました。

道後温泉本館

 国内外の観光客が写真や動画を撮っており、また、ひどい雨でじっくりと建物を見られなかったのは少し残念でした。

 もっと時間的余裕を持って訪れ、お湯にも入ってみたかったです。

俳句を仕方なく始めた漱石

 道後温泉本館の裏手には「坊っちゃん之碑」が立っています。

「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている〜」という『坊っちゃん』の有名な書き出しが刻まれています。これは漱石の自筆原稿で、碑は『坊っちゃん』発表から100年の記念にたてられたそうです。

 ゆっくり眺めていたかったですが、ご覧のとおりの雨で、そこにじっとしているのもしんどい状況でした。

坊っちゃん之碑
漱石の筆跡。読みやすいです。

 雨なのでどうしようかと迷いましたが、歩いて道後公園へ行きました。

 ここでは漱石、子規、一茶の句碑が出迎えてくれました。

 まず、漱石と子規の俳句。右が子規作「ふゆ枯れや鏡にうつる雲の影」。左が漱石作「半鐘と並んで高き冬木哉」

 これは後述する子規記念博物館の展示に書いてあったのですが、漱石が松山に住んでいたころ、当時の住居である「愚陀仏庵」に正岡子規が52日間居候していたことがあり、子規のもとに人が集まって句会を開くから漱石は気が散って読書もできず、仕方なく自分も句会に参加することにした、とのこと。

 漱石の文体には、漱石が好きだった寄席、得意としていた漢学や英語とともに、俳句の影響も感じることがあります。若干迷惑だった子規の俳句活動と、嫌々ながら(?)始めた句作が漱石の文学の礎になったというのも面白いものです。

右が子規、左が漱石の句

 ちょうど子規・漱石の句碑の裏手に、若干小振りな小林一茶の句碑、「寝転んで蝶泊まらせる外湯哉」があります。

 一茶や芭蕉をはじめ、飛行機も鉄道もバスもなかった時代の日本人がたくましく全国各地へ移動を繰り返していたことには改めて驚嘆せざるを得ません。旅先で読まれた句や歌に込められている思いは、現代の僕たちよりもさらに深く、複雑なものもあったでしょう。

 思いが深く複雑だからこそ、極限まで削ぎ落とされた言語芸術で表現する、シンプルな言葉の中に無限に広がる心と宇宙を読み込む——そこに俳句というものの味や感動があります。

子規記念博物館

 道後公園の入口付近に子規記念博物館があります。俳句のまち・松山の総本山のような場所です。

 玄関前には、野球が大好きだった子規——幼名は「升(のぼる)」——の顔はめパネルがありましたが、ひとりでは撮ることもできず。

 俗説で、「野球」という言葉は子規の発明だと言われることがあります。「のぼる」という名前から、「ベースボール」→「野ボール」→「野球」になったという連想です。

 実は、「野球」の語は中馬庚(ちゅうまんかのえ)が案出したもの。子規は「野球(のぼーる)」という雅号を使ってはいたものの、「ベースボール」の訳語とは考えていなかったようです。

 エントランスを抜けると、そこにも撮影可能な展示がありました。「子規の机」と、等身大の子規・漱石のパネルです。

 雨だからか、それとも祭りだからか、この日の博物館はあまり人がいなかったので、誰にも見られていないタイミングで子規・漱石とスリーショットを撮りました。

畏れ多いスリーショット……

 展示は、子規の人生や考え方がよくわかるもので、自筆の原稿や手紙、俳句などもあり、非常に興味深かったです。

 また、漱石の手紙なども多くありました。子規宛の漱石の手紙では署名が「平凸凹(たいらのでこぼこ)」となっていました。「坊っちゃん」にしても「赤シャツ」にしても「苦沙弥先生」にしても、漱石のネーミングセンスの軽妙さには感服させられます。

 実際に小説などを書いたことがある方はおわかりになると思いますが、ネーミングというのは作品のテーマや物語の味わいにも関係してくる重要なポイントなのです。僕もキャラクターの名前を考えるときはかなり悩み、途中で変えたり、やっぱり戻したりと四苦八苦します。その点、漱石はネーミングセンスにおいても偉大だったし、もし現代に生きていたらキャラクタービジネスでも大成功を収めたのではないかと思います。

 ともかく、子規記念博物館は映像も豊富にあり、じっくり楽しめる場所なので、文学を志す方や文学好きの皆さんにはぜひ一度訪れていただきたいです。

 雨の中、かなり駆け足でどたばたと松山、道後を見て回った感じでしたが、こうして振り返ってみるとなかなか満喫していたようにも思えます。

 軽く思い出でも綴っておこうと思って書き始めたのに、予想外に長くなってしまいました。


【オザワ部長・近著】


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