「無間抹茶に溺れる日々」
2018/8/24 そこに理由などない
目的意識の上に眠っていては仕方がない。
私がお茶を点てるのに目的はない。ただ、ひたすら点てる。そして飲む。飲んではまた点てる。むしろ、私がお茶に飲まれているようである。そのうち血液が緑色になるのではないか。
私が上手く点てる必要はない。この気を使わない時間が好きなのである。
多分、お茶でなくても良かった。部屋の奥でピアノを弾いていても良かったのかも知れない。しかし、練習嫌いであった子どもの頃の私は早々に習うことを辞め、その後、長らく鍵盤に触れていなかったため、もはや指が全く動かない。
目的意識を持つことは大切であろうが、より肝心なことは行動である。最悪なのは、目的意識に縛られ、結果だけを先取りしようとすることである。それでは、時間を掛ければ実る筈のものすら実らない。
仮に誰かに「何のためにそれをするのか」と問われれば、私は相手が望むような答えを持ち合わせていない。これは、お茶に限った話ではない。『法人処罰と刑法理論』とか『現代航空論』とか、それは「学びたいから読んでいる」以外の答えようがない。もし私が具体的な動機を回答したとしても、多くの場合、それは相手の期待している回答とは違うと思うのである。
結局のところ、「目的意識を持つべきである」との呪縛に振り回されて何もしないよりは、何かをしていた方が気が楽であるから、それをする。
そして、私は無間抹茶に溺れていく。
ここまでご覧頂いただきまして誠にありがとうございます。 大事なお時間に少々の笑顔をお届けできれば幸いです。