【治承~文治の内乱 vol.42】 金砂城攻防戦
金砂城攻防戦
治承4年(1180年)11月4日。
頼朝は常陸国府(※1)に到着、いよいよ佐竹氏攻略を開始しました。
佐竹氏は家祖・新羅三郎義光(源義光)以来着々と勢力をのばし、この当時は常陸国奥七郡(※2)と呼ばれる地域一帯を勢力圏としていました。また奥州藤原氏や磐城地方の海道平氏、常陸国内に個々に勢力を築いていた常陸平氏諸氏などと代々血縁関係を結んで、常陸国だけでなく近隣の国々にも影響力を持っていました。
また、そのような佐竹氏を攻撃するにあたっては、南坂東の武士をあらかた従えていた頼朝にしても容易ならざる相手であったことは確かであり、下手に手を出せば、奥州に確固たる地盤を持ち強力であった藤原氏を刺激して介入を招く恐れも考えられる状況でした。
そうした中で、頼朝はまず戦わずして佐竹氏の力を削ぐことを考えたようで、家中の分裂を図ったのです。そして、佐竹氏の内情に詳しい上総広常に佐竹一族の中で頼朝に同調する者がいるかどうかを探らせました。
すると、佐竹昌義(常陸佐竹氏祖)の長子だった(※諸説あり)佐竹義政が頼朝のもとへ参向する意思を示してきたのです。
当時、佐竹氏の家督は昌義の三男とされる隆義が継いでいました。そうしたことが背景にあったかは定かではありませんが、ともかく広常の案内で義政は頼朝のもとを訪れることになりました。
ところが、その途上であった大矢橋(※3)で事件が起こります。
大矢橋を渡る際、義政一人に橋を渡らせ、その他の家人や郎等たちは橋の手前で待機させられました。そして義政がちょうど橋の中ほどまで来た時、突然、義政の傍らにいた広常が一刀のもとに義政を斬り殺害してしまったのです。
『吾妻鏡』によれば、これは頼朝の指示であったといいますが、なぜ謀殺したのかまでは記されていません。
こうして佐竹義政を謀殺したとは言え、依然、佐竹勢の主力は在京している佐竹隆義に代わって、その嫡子・秀義が率いており、その秀義は佐竹氏の城の一つ、金砂城に籠って頼朝勢迎撃の構えを見せていました。
そこで頼朝は直ちに、下河辺行平、下河辺政義、土肥実平、和田義盛、土屋宗遠、佐々木定綱、佐々木盛綱、熊谷直実、平山季重らを金砂城攻撃部隊として派遣しました。
しかし、金砂城は天然の要害とも言うべき場所にあり、頼朝勢は苦戦を強いられました。『吾妻鏡』にはこう記されています。
“佐竹冠者(秀義)は城壁を作り、要害を固めて、兼ねてより頼朝勢の襲来に備えていたため、士気は少しも衰えておらず武器を振るって矢や石を放って応戦した。金砂城は山上にあるが、頼朝勢はその山の麓や谷を進軍したために、両者には天地ほどの隔たりがあって頼朝勢の多くの将兵が佐竹勢の放つ矢や石に当たって命を落とす一方で、頼朝勢の矢は放っても、山上の佐竹勢には届かない。そればかりか、城へ通じる道も岩石で塞がれ攻め登ることもできなかった。そこで頼朝勢の将兵は次第に士気も落ちはじめた。そして結局攻める有効な手段を見いだせず、かといって退却することもかなわず、ただ矢をつがえて城を見上げるばかり。やがて日は暮れた。"
こうして戦況が膠着する中、攻撃部隊の将である土肥実平・土屋宗遠は、苦戦の旨を伝えるため明くる11月5日未明、使者を頼朝の許へ遣わしました。
「秀義の籠る金砂城はとても人の力で攻め落とせるものではございません。ここは今一度対策を講じる必要があります」
土肥実平・土屋宗遠らの要請を受けて今後の対応を迫られた頼朝は、宿老格の三浦義澄、千葉常胤、上総広常らと直ちに対応を協議、金砂城攻略の手段を図りました。すると広常が、
「秀義の叔父にあたる佐竹義季はその知謀、人に優れた者でありますが、欲深い者でありまして。ここは義季に恩賞を約束すれば、きっと義季は金砂城を落とす秘策を考え出すことでしょう」
と、秀義の叔父である佐竹義季の調略を勧めました。またも家中の分裂を図り、内から城を落そうというのです。頼朝はこの広常の進言を受け入れて、佐竹義季の調略を広常に任せました。
『吾妻鏡』は上総広常の思わぬ来訪に佐竹義季は大変喜びましたが、一方の広常は義季の歓迎もそこそこに早速話を切り出したと記しています。
「近頃、東国において武衛(頼朝)に従わない者はいない。そんな中で佐竹秀義は孤立無援で反抗しているとは何とも頼りないことではないか。そなたと秀義は骨肉の間柄ではあるが、どうしてそんな秀義と一緒に不義を働くことがあろうか。ここは秀義を討ち取って武衛に従い、佐竹の領地をそなたが相続するべきである」
義季はこの広常の提案に同意しました。
そして自ら案内に立ち、広常や頼朝勢を城の背後に招いて、そこで一斉に鬨の声を上げさせたのです。
すると、城方の佐竹秀義勢は予想だにしなかった方角から敵の声が上がったことで、みな一同に慌てふためいてたちまちに混乱、統率がとれなくなってしまいました。
こうなると戦いは一方的に。
やがて頼朝勢が城内へ攻めこむと、秀義勢は潰走離散。秀義自身も命からがら城を脱出、佐竹氏のもう一つの城である花園城(※4)へと落ち延びました。こうして難攻不落を誇った金砂城は落城したのです。
その後、頼朝勢は秀義勢残党の落武者狩りを行うとともに、金砂城の城壁や防御施設を焼き払うなど防衛機能をなくした上で棄却しました。
しかし、頼朝は花園城へ逃げた秀義を追撃することはしませんでした。これは花園城が陸奥国との国境に程近く、奥州藤原氏の去就が明らかではない状況で北上すると、いよいよ介入を招く可能性があることを警戒したためだったのかもしれません。
反抗し続けた佐竹氏
ただ、このように佐竹氏を完全に屈服させることができなかったことで、金砂城攻防戦後も佐竹氏は反頼朝勢力として抵抗を続け、頼朝を悩ませることになります。
藤原兼実(九条兼実)の日記『玉葉』には伝聞したこととして、たびたび関東の情勢を記しており、治承4年12月3日の記事では上野国・常陸国で頼朝に背く者が現れたとし、治承5年(1181年)2月2日・3日の記事として、常陸国で頼朝に背く者がいて、頼朝は討とうとしたものの負けてしまい、再び攻めて一二度と追い返されたが、ついにそれらを征伐したというとあり、さらに4月21日には関東の諸国はみな頼朝に背く者がいなかったが、佐竹の一党3000余騎は常陸国に引きこもって、頼朝に一矢射ようとしているとあり、常陸国で佐竹氏が断続的に反抗していたことをうかがわせます。
また、『延慶本平家物語(※5)』にも治承5年4月20日のこととして、平家は佐竹隆義(秀義の父)を常陸守(介)に任じた上で頼朝追討の院宣を下し、頼朝と戦わせたが敗れて奥州へ逃げ籠もったという話があります。
このように佐竹氏は反頼朝勢力として抵抗し続けたようですが、頼朝はそんな佐竹氏を常陸国の北辺に追いやったことで、常陸国も自身の勢力圏内に組み込むことができ、本格的に頼朝の勢力が北関東地域に及ぶことになりました。そして、まだ態度を明らかにしていない北関東の諸勢力に少なくない影響を与えることになっていきます。
新恩給与
治承4年(1180年)11月7日(『吾妻鏡』)。
この日、佐竹氏を常陸国と陸奥国の国境付近へと追いやった軍勢が頼朝のもとへ凱旋してきました。
とりわけ熊谷直実と平山季重の両名は今回の一連の戦いにおいて先頭きって戦い、多くの敵勢を討ち取ったことから直接頼朝のお褒めに与り、また、今回の佐竹攻めで寝返り、金砂城の間道(抜け道)を教えて落城に一役買った佐竹義季に対しても御家人として名を連ねることが認められました。
そして、その翌日(11月8日)。
早速今回の佐竹攻めで勲功のあった武士たちに恩賞が与えられ、佐竹氏から奪った太田、糟田(額田)、酒出といった土地が分け与えられました。
これまで頼朝が傘下の武士に対して行える見返り(御恩)は、彼らがもともと所領としていた土地の保障や持っていた利権の保護など(本領安堵)をするのが中心だったんですが、ここで新たな土地を得たことで、所領として分け与えるのが可能になったのです。
これを新恩給与といい、教科書的には本領安堵と新恩給与が「御恩」の二本柱とされ、のちの鎌倉政権の根幹をなすものの一つになったと説明されます。
(もう少しあとになると、御家人が位階もしくは官職を賜わることができるよう朝廷へ推挙し、それが認められれば、これも御恩の一つと見なされたというのがあります)
ちなみに、頼朝が新恩給与を行えた理由として、川合康先生は、頼朝らが従来の国の秩序(朝廷)から逸脱した反乱者であったからとされます。
従来の官軍(朝廷の正規軍)では敵方の所領を「没官領」として朝廷が没収し、その給与も朝廷が主体となって行うために、官軍の大将が家人に対して自由に分配することは不可能でした。
ところが、頼朝は自身がすでに朝廷に対する反逆者であったために、朝廷を介さず自由に配分できたと説明されています(※6)。