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【甲斐国】 甲斐武田氏はじまりの地(武田八幡宮、武田信義館跡、願成寺)

今回ご紹介するのは、甲斐武田氏の始まりの地とされる山梨県韮崎市にある「武田八幡宮」「武田信義館跡」「武田信義墓所(願成寺)」です。

武田氏自体のはじまりは常陸国那珂郡武田郷(茨城県ひたちなか市武田)を本拠とした源義清よしきよがそこを名字の地として武田義清と名乗ったのがはじまりですが、甲斐武田氏は源清光きよみつ逸見へんみ清光、義清の嫡子)の子で、武田の名跡を継いだ信義のぶよしが韮崎の地に本拠を構えたのがはじまりです。
(よかったらこちらもどうぞ「甲斐国と河内源氏」〔甲斐源氏 vol.1〕


さ、前置きはこれくらいにして早速武田八幡宮の方へ行ってみます。

行くとこのように年季の入った木製の鳥居が建っています。この道をまっすぐ行った先が武田八幡宮です。
これを撮影したのは2010年と10年以上前のことなので、今でもこの鳥居と鳥居の奥でいい雰囲気を醸し出している火の見櫓があるかはわかりませぬが、とても良きです。

武田八幡宮の門前に着きました。するとこのように立派な楼門(随神門)が。
そして傍らにいる杉の大木2本がお出迎えです。

もう少し離れたとこから楼門と杉の木を一緒に撮ればよかったです・・・

この武田八幡宮は神社にあった案内によれば、弘仁こうにん13年(822年)に勅命ちょくめい(天皇の命令)によって、もともとこの土地の神(武田王)を祀る祠廟に、九州の宇佐八幡宮から八幡神を勧請してともに祀ったのがはじまりとされています。

この武田王というのは日本武尊ヤマトタケルノミコトの子で、武田村の桜の御所でこの土地を治められたそうです。
(甲斐国にも武田という土地がもともとあったのかな?)

その後、貞観年間(859年~876年)に再び八幡神が勧請されることになり、今度は京都の石清水八幡宮から勧請したそうです。前回の勧請から30~50年経って再び同じ神様を勧請するのは??ですが、そういうことになってます(笑)

ま、早速境内へ入ってみます。

う~ん、まっすぐ伸びる石段よき。なにか建物が見えます。
最初の石段を上った所にある神楽殿(今でも神楽が奉納されるのでしょうか)

この武田八幡宮は甲斐武田氏の祖とされる武田信義が社前で元服した神社と伝えられ、以後代々甲斐武田氏の氏神として崇拝されたようです。
さ、神楽殿の奥にある石段も上りましょう。

こちらは拝殿です。甲斐武田氏の家紋である「武田菱」の幕がまた良き。
そして奥に屋根だけ見えているのが本殿になりますが、通常では立ち入ることができないようです。(残念)

ちなみに、あの本殿は室町時代(戦国期)の天文てんぶん10年(1541年)に武田晴信(のちの信玄)が父・信虎の本殿再建事業を引き継いだ形で竣工したものだそうで国の重要文化財となっているそうです。

ところで上の写真、拝殿の傍らに字が刻まれた黒い石板が立っているのですがわかりますでしょうか。クローズアップしますね。

こちらは上段が武田八幡宮所蔵「武田勝頼公夫人願文」を2.5倍に拡大した写し、下段は韮崎市史上巻から佐藤八郎氏が執筆した読み下しとなっています。せっかくなので、読み下しを載せてみますね。

うやまって申す     きくわん祈願の事
南無きみやうちゃうらい帰命頂礼まんぼさつ菩薩
この国のほんしゆ本主として 竹た武田の太ろうかうせしより此方 代々まほり給ふ ここにふりよ不慮けき新逆臣たつて 国なやます つてかつうんてんとう天道まかせ  命をかろんし軽んじてきちん敵陣かふ しかりといへとしそつ士卒 さるあいた そのこころまちまちたり なんきそよし政木曽義昌 そくはく若干の神りよをむなしくし あわれ 身のふほ父母をすてて きへい奇兵こす これみつかははかいするなり なかんつく就中かつるいたい累代十おん重恩ともから けき新逆臣と心をひとつにして たちまちにくつかへさんとする はんみん万民なうらん悩乱はうさまたけならすや そもそもかつより勝頼 いかてか争でかあく新悪心なからんや おもひのほのを天にかり しんい瞋恚なをふかからん 我もここにして あひともにかなしむ 涙又らんかん欄干たり しんりよ神慮めいまことらは 五きやくきやくたるたくひ しよ天 かりそめにもかこ加護らし この時にいたつて 神しん信心 わたくしなく かつかう渇仰きもめいかなしきかな しんりよ神慮まことらは うんめい運命ときいたるとも ねかわくは れいしん霊神ちからわせて つ事を かつ一し一身?につけしめたまあたよも四方しりそ退けん ひやうらん兵乱かへむ還つて  めいひらしゆめい寿命しようおん長遠 しそんはんしやう子孫繁昌の事
 みきの大くわんちやうしゆ成就ならは かつ頼 我ともに しやたん社壇 みかき御垣 くわいろう回廊 こんりう建立の事
うやまつて申す
天正十ねん二月十九日  みなもとかつ頼 うち

要するにこれは天正10年(1582年)の甲斐武田氏滅亡の直前に、武田勝頼の夫人(北条夫人)が武田八幡宮に奉納した願書で、もはや風前の灯となってしまった武田勝頼の命運をなんとしても救いたい一心で捧げられたものなのです。

この願文を奉納してから1ヶ月も経たずして甲斐武田氏は滅亡。勝頼と夫人はともに自刃します・・・。

いやぁ、この文面からは夫人のそれこそまっすぐな気持ち、どうにかして、なんとしても、藁にも縋る思ひというのが感じ取られ涙です・・・。
ちょっと読みづらかったかもですが、ぜひこの夫人の気持ち読んであげてみてください。

境内にあった小さな楓
木漏れ日に光る紅葉がきれいです

さて、この武田八幡宮の近くの山には城跡があります。白山城という城です。

甲斐武田氏の麾下に属する武川衆むかわしゅうという勢力が所管するお城だったようですが、城の曲輪のひとつ?付け城?はのろし台として使われてたみたいですね。行ければ行きたかったのですが・・・。

このように厳重な柵がされて行けませんでした~。残念!(´;ω;`)ウゥゥ
(他にも上り口はあるようですが、付近はよく熊が出るみたいで・・・それなりに装備をしてった方がいいかも・・・)

ということで、武田八幡宮をあとにして次の目的地へ向かいます。

武田八幡宮の随神門横から韮崎市街地方面をのぞむ
境内を出たところでみた甲斐の秋の景色(空が変色・・・泣)


さて、ここは武田八幡宮から北東に1.5㎞ぐらいのとこにある「武田信義館跡」です。今は畑と住宅地の拡がる一角に案内板とそれを示す標柱が立っているのみです。

案内板によれば、館跡の痕跡となる土塁が一部現存しているとのことですが、もっと現地であたりも散策してくればよかったな・・・と後悔。
なお、付近にはお屋敷、お庭、お旗部屋、み部屋、的場、お堀、金精こんじょう水、具足ぐそく沢という地名が残っていて、これも館があったことを伝えるものとのことです。

今度行った時は土塁探してみようかな・・・。(案内板が昭和53年のものだから今はもうないかもだけど・・・)

さて、こちらは武田信義館跡からは南東に1km弱、武田八幡宮からは東に2km弱の場所にある願成寺がんじょうじです。ここには武田信義のものと伝わるお墓があります。

案内板によれば、武田信義が祈願寺として中興し、後白河法皇に山号を奏請、京都の仏師に頼んで作ってもらった木製の阿弥陀三尊を安置したという信義ゆかりのお寺のようです。
(この阿弥陀三尊はいくたの火災から守られ現存しているそうですよ)

こちらが武田信義さんのお墓です。中央の大きな五輪塔が信義の、左が夫人の、そして右は乳母姫のお墓なんだそうです。
武田信義は文治ぶんじ2年(1186年)に亡くなったとされますが、近年それ以降も生存していたとする説も出されて亡くなった時期は不明です。
(また武田信義の紹介記事の際にお話ししようと思います)

願成寺駐車場に合った武田信義の案内板(色褪せ具合がなんとも・・・^^)

ということで今回の史跡・旧跡案内は以上です。
今回掲載した写真は10年以上前のものなので、現状変わってるとこもあると思います。それに記事にしてみて散策不十分だなと思えたので、また近いうちに再訪してみたいと思います。

おまけにこちら。

こちらは韮崎市役所前に建つ武田信義の銅像です。甲斐武田氏の始祖ということで今でも地元・韮崎市を代表する人物として親しまれているようです。
それでは最後までお読みいただきありがとうございました。


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およまる
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