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【治承~文治の内乱 vol.10】 頼政・以仁王の最期

 源頼政は渡辺党の源そえる(渡辺副)を招き寄せて、
「私は六代の賢君(※1)に仕え、よわい八旬はっしゅん(※2)の老衰の身となった。官位はすでに先祖を越え、武略(※3)は先祖のそれと等しいくらい全く恥じないものである。武道においても、わが家においてもよろこびはあっても悔いはない。ただひとえに天下のために今義兵を挙げた。命を今この時に落とすといえども、名は後世に残るであろう。これは勇士が切に願うこと、武将にとって幸せなことではないか。各々おのおのふせぎ矢を射て、静かに自害させよ」
と、ついに自身の最期の時を悟りました。頼政は右の膝関節を射られていましたが、木津川のほとり、崖のようになっている岸の影に隠れて、馬から下り、鎧を脱ぎ、息も絶え絶えに念仏を百回ほど唱えて、一首の和歌を詠みました。

埋もれ木の 花咲くことも なかりしに 身のなる果てぞ あはれなりける

この期に及んで歌を詠むことなど思いも寄らないことですが、心から好きなことであったため、このような時にも歌を詠まれるとは誠に哀れなことです。
 
 頼政は渡辺党の長七唱ちょうじつとなう(渡辺唱)に、
「我が頸を討て」
と命じるものの、唱は生頸いけくびを討つのはあまりにも忍びないと思ったのか、
「ご自害なさってください」
と返したため、頼政は太刀を腹に刺し当ててうつ伏せに伏せました。その後唱が頸をかき切り、穴を深く掘ってその頸を埋めました。
しかし、ここにもやがて平家の軍兵がやって来て、とうとう頼政の首を見つけ、持って帰ってしまいました。
 
一方、以仁王はひたすら南都(奈良)へ向かっていました。しかし、園城寺衆徒や以仁王方の武士もみな散り散りになって一軍も以仁王のお供に付き添っておらず、ただ数名の園城寺衆徒と中間ちゅうげん(非武士身分の奉公人)の黒丸が付き添うばかりでした。
一行は以仁王を先行させて南都を目指していましたが、ようやく奈良の都も近づいた光明山へとさしかかった時、敵の追撃を受けました。平家方の武士・藤原景高かげたかが以仁王方の掃討戦には加わらず、ひたすら以仁王を追って急行してきたのです。
すると、景高軍から放たれた遠矢が以仁王のわき腹に当たりました。以仁王は馬から真っ逆さまに落ち、もはや目を開けることもありませんでした。
園城寺の衆徒・讃岐阿闍梨覚尊さぬきのあじゃりかくそんは宮のお供をせよと頼政より拝領した馬・油鹿毛あぶらかげに乗っていましたが、すぐに馬より飛び下り、以仁王のそばへ寄りました。しかし、以仁王は一言も言うことなく息絶えました。覚尊は中間の黒丸とともに以仁王を馬に乗せようとするも叶わず、そうこうしているうちに景高の手勢があれよと以仁王の首を取ろうと迫ってきました。
覚尊は太刀を抜いて、
「貴君は飛騨ひだの判官景高と見るがいかが、間違いか。君(以仁王)はこのようにお亡くなりになった。またこの覚尊がいるのに、どうして馬に乗りながら下知をしているのだ。おのれは日本一の痴れ者かな」
と、言うと景高の郎等10人あまりがそうは言わせずと覚尊に打ちかかりました。覚尊は怯むことなく彼らの中へ入って散々に切りまわりました。他に律静房日胤りつじょうぼうじついん、その弟子・伊賀房、乗円房じょうえんぼうの弟子・刑部房春秀ぎょうぶぼうしゅんしゅうなどの園城寺衆徒も覚尊とともに応戦。景高の郎等10人あまりはみな討ち取られました。

乱戦のさなか覚尊は景高の手勢が放った遠矢に膝を射抜かれました。覚尊は膝をついて腰刀を抜くと、自分の腹巻の引き合わせを切り、腹をかき切って以仁王の遺体のそばで伏すと、はらわたを繰り出しながら、
「やがてお供に参りますぞ」
と言い残して死にました。
日胤はなおも景高の手勢に切りかかって6人を討ち取ったのちに討死。弟子の伊賀房は8人を切り伏せ、4人に手傷を負わせて奈良のほうへと落ち延びていき、中間の黒丸はこの乱戦のなか逃げていきました。

こうして以仁王一行は景高の軍勢によって壊滅し、景高は以仁王らの首を取って引き返していったのです。
 
この園城寺の僧・律静房日胤は、伊豆国にいた頼朝と親交があり、頼朝の依頼をうけて石清水いわしみず八幡宮に千日籠って『大般若経だいはんにゃきょう』を見読し、頼朝の武運を祈っていました。そして七百日目にあたる夜、八幡宮の御宝殿より黄金の兜を譲り受けるという霊夢を見たため、すぐさま伊豆国の頼朝の許へ参りそのことを話しました。頼朝は、
「なによりも末頼もしいことにて」
と大いに悦び、
「この頼朝が世にあれば、いずれは思い知ることであろう」
と日胤に感謝したといいます。
 そんなさなか都で以仁王の乱が起きたため、日胤は急いで都へ帰って乱に加わり、このようなことになりました。

 その後、平家が滅んだのち、頼朝は園城寺に日胤を訪ねました。しかし、すでに日胤はおらず、以仁王の乱で命を落としたことを園城寺の者に聞かされます。そして、頼朝は、
「それでは、あまりに不憫なことではないか。かつて日胤は私の祈りの師であった。昔語った夢の勧賞をしようにも・・・。せめてねんごろに供養しようではないか」
と手厚く供養したということです。
 
さて、南都の大衆三万余人は以仁王を迎えるべく出陣しました。
「すでに先陣が木津川のほとり、後陣がいまだ興福寺南大門を出たところであるらしい」
と、以仁王は聞いていただけに頼もしく思えていましたが、あと40~50町(約4.8km、5km弱)のところで王は討たれてしまいました。以仁王はまさしく(後白河)法皇の御子で、帝位に就いて世に知れ渡ることも難しくない身分の方です。帝位に就かないまでもそのような身分の方が今このような目にあうことがありましょうか。どのような前世の因縁なのかと思うも哀れなことです。
 
光明山の鳥居の前で以仁王が討たれたことを聞いた南都の大衆は、
「大将のおらぬ戦はすべきにあらず」
と、何もできずに南都へ引き返していきました。

さて、平家軍はこの以仁王をはじめ、源頼政ら五十余人の首を引っ提げて都へ帰還しました。事のありさまは目もあてられません。頼政入道の首ということで持ってこられた首は、はるかに若者の首が渡されました。
かくして以仁王軍で討たれた者は六十余人、負傷したもの四十余人。一方、平家軍は負傷者数を知らず、死んだ者は七百余人といいます。


以上が『平家物語』で語られる宇治平等院の戦いの様子です。
本当は渡辺党の武士たちそれぞれの最期なども記されていますが、すごく長くなってしまいますので、今回は省略して大体の話の筋でお話ししました。

さて、今回参考にしたのは『延慶本えんぎょうぼん』と『長門本あがとぼん』という二種類の『平家物語』ですが、この2つの『平家物語』でもかなりの違いがあります。

相違点を細かく挙げると、これまたかなりの長文になってしまうので、大きな違いを2つご紹介しますと…。

1つ目は頼政・仲綱親子の最期です。

『延慶本』では仲綱なかつなの最期はあまり語られず、討死にしたことがサラッと書いてあるだけで、頼政よりまさは南都へ逃げ延びる途中の木津川のほとりで自害します。一方、『長門本』では宇治平等院にある釣殿つりどのの中で、父・頼政の自害を見届けた後に仲綱も自害していて、親子が一緒の場所で最期を迎えています。源仲家なかいえらは平等院の門前にて頼政らがが自害するまで迫る平家軍に防ぎ矢を射て応戦、二人が自害したことを知った後に自害するという話になっています。

このように、頼政自害の場所は「木津川のほとり」と「平等院」とで違っていますが、平等院境内には現在も「扇の芝」と呼ばれる頼政自害の地とされる場所があります。(←能『頼政』の影響かもしれません)
その一方で、九条兼実かねざねの日記『玉葉ぎょくよう』には
綺河原かばたがわらおいて頼政入道、兼綱等を打ち取りおわんぬ”
とあって、この綺河原(加幡河原とも)というのは、どうも木津川のほとりにあった地名のようです。『玉葉』はこの当時に記された貴重な史料ですので、それに書いてあるということは頼政最期の地は木津川のほとりというのが事実に近いと思いますが、詳しいことはもはやわかりません。

2つ目は以仁王に随行していた人です。

『延慶本』では以仁王と黒丸、長谷部信連はせべのぶつらの3人となっていて、『長門本』での覚尊かくそんの役回りが信連に当てられています。つまり、以仁王とともに信連も討死してしまうんです。

しかし、長谷部信連は鎌倉時代初期まで生きていたことが『吾妻鏡』で確認できる(※4)ので、おかしな話です。なので今回、以仁王の最期は『長門本』を参考にお話させていただきました。

ということで今回はここまでです。最後までお読みいただきありがとうございました。

注)
※1・・・六代の賢君とは鳥羽・崇徳・近衛・後白河・二条・六条を指すと思われます。
※2・・・一旬を10日とすることから転じて、一旬年を10年とします。八旬(年)は80年。
※3・・・戦のかけひき、軍略。
※4・・・『吾妻鏡』建保6年(1218年)10月27日条に信連が能登国で死去した記事があります。 

(参考)                                        櫻井陽子編 『校訂 延慶本平家物語(四)』 汲古書院 2002年
麻原美子・小井土守敏・佐藤智広編 『長門本平家物語 二』 勉誠出版 2006年


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およまる
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