【伊豆国・山中城 vol.2】二重堀が特徴の三の丸
今回から現地の写真も交えて山中城の各エリアについてお話ししていきたいと思います。第2回目はまず本城部分からということで、山中城三の丸エリアを紹介します。前回はこちらから。
鳥瞰図で言うと、赤丸で囲ったエリアになります。
もう少し拡大。
三の丸について
三の丸は現在の宗閑寺を中心とする平場にあったとされていますが、現在は宅地が建ってて後世の土地の改変もだいぶあると見られるため、曲輪の形は今一つはっきりしていません。
一説に三の丸は居住区だったとされますが、三の丸のすぐ脇を東海道が通っており、また大手は三の丸にあったと見られることから、往時は関所の役割も果たしていたのかもしれません。
三の丸堀
三の丸の遺構の中でひと際特徴的なのがこの三の丸堀です。
三の丸堀は三の丸の西端を通って岱崎出丸へ続く南北に延びる二重堀で、東海道を東に山中城へさしかかると、眼前にまずこの堀が横たわることになります。
二重堀の構造としては天然の谷を利用しつつ、谷の中央に畝を設け、畝の西側を空堀、東側を水堀としたもので、水堀は水の手である田尻の池や箱井戸の水の排水も兼ねていたようです。解説板によれば、長さ約180m、最大幅約30m、深さは約8m という大きな堀でした。
田尻の池・箱井戸
山城の生命線は何よりも水源の確保にありました。
この山中城にもいくつか水の手(水源)があって水源の確保に努力がなされており、この田尻の池と箱井戸もそうした大事な水源のうちの一つでした。
もともと田尻の池と箱井戸の付近は一つの大きな湿地帯となっていましたが、築城時にその湿地帯を盛土(土塁)によって 2 つに区切り、湧水量が多い方を箱井戸として人の飲用水に使い、その箱井戸の水は排水路を通じてもう一方の田尻の池へ流して、その水は洗い場や馬の飲用水に使い、最終的に三の丸堀の水堀へ排水されたそうです。
なお、現在は 2 つの池ともあまり湧水量がないようで、水の流れはなく、とても濁っています(鯉らしき魚はいました)。
宗閑寺と武将たちの墓
かつての三の丸には、宗閑寺というお寺がひっそりとした佇まいで建っています。この宗閑寺はvol.1でもお話ししたように、元和6年(1620年)に、山中城攻防戦で岱崎出丸の守将であった間宮豊後守(康俊)の娘であるお久の方を開基、了的上人を開山として建てられた寺で、山中城攻防戦において戦死した者たちの菩提を弔っています。
今も豊臣方の一柳直末、北条方で山中城城代・松田康長をはじめ、間宮康俊、多目長定らが敵味方の隔てなく同じ場所で並んで眠っています。
この寺の開基であるお久は、父である間宮康俊をはじめ、間宮信俊・信冬・信重と一族の多くをこの山中城で失い、その菩提を弔いたい一心でこのお寺の創建を思い立ったのかもしれませんが、こうして山中城攻防戦で亡くなった者たちを敵味方分け隔てなく墓を立て菩提を弔う様子からは、もうこれ以上戦で命を落す者がいなくなるようにと平和を切に願うお久の気持ちも垣間見えるようです。
芝切地蔵尊
おそらく、山中城を取り上げている記事は数多くあれど、あえてこの芝切地蔵さまをアップする方は少ないんだろうと思います。
なぜならこのお地蔵さまはかつての三の丸内にありますが、山中城には全く関係ないからです。でも、私がこのお地蔵さまのお堂をあえてアップさせてもらったのは、ここが三の丸南櫓の遺構ではないかと思ったからです。
山中城訪問の事前に見た山中城の縄張図(城の遺構の見取図、『日本城郭大系』)には、このあたりに南櫓の高台があるとなっていて訪れたものの、あったのは高台の上に建つこの芝切地蔵尊。もしかしたら…と撮った次第です。
ついでに、この芝切地蔵さまの解説板から。
やはり箱根越えは命がけだったんですね・・・。
それにしてもなんだか不思議な旅人です。
ところで、伝説の中に気になる言葉が。
「芝塚を積んで…」
ということはこの高台は南櫓の遺構じゃない?
ちょっとよくわかりません。芝切地蔵尊のある高台が南櫓の遺構ではない可能性があることを付け足しておきます。
それにしても、味がたいそう良いという「小麦まんじゅう」
・・・気になりまする。
が、今ではもうこの近くには「小麦まんじゅう」を売っているところはなさそうでした。残念。ちょっと食べてみたかったです。
ということで今回はここまでです。
次回は山中城最大の見所といってよい「障子堀」を有する西の丸エリアです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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