【治承~文治の内乱 vol.14】 大庭景親の帰国
藤九郎盛長と小中太光家、味方を募りに相模国へ
早速、味方集めのために義朝と縁が深かった関東の武士たちへ頼朝支持を呼びかける使者が送られました。使者は正使に藤九郎盛長(安達盛長)、副使に小中太光家(中原光家)の2名です。
藤九郎盛長は頼朝の乳母である比企尼の娘婿で、常に流人・頼朝の側に控えて、苦楽をともにしているいわば頼朝の腹心でした。副使の小中太光家もどういう経緯で頼朝に仕えていたのか詳細は不明ながら、この時期から頼朝に近侍する武士の一人で、彼もまた頼朝にとって信頼のおける人物でした。
かくして盛長と光家の2名はまず、相模国余綾郡の波多野郷を名字の地とする波多野義常のもとへ向かいました。
この波多野義常の妹は、頼朝の父・義朝の側室となって朝長(頼朝の異母兄)を産んでおり、義常は頼朝にとって義理の叔父にあたることになります。
しかし、義常は頼朝挙兵の呼び掛けには応じませんでした。かつて義朝と縁の深かった坂東の武士たちへ頼朝の支持を呼びかけるという方策は、早くも幸先不安な様子となってしまったのです。
盛長と光家は次いで、これまた代々の河内源氏と縁浅からぬ武士、山内首藤経俊のもとを訪れました。
この山内首藤経俊の母は頼朝の乳母・山内尼であるため、頼朝と経俊は乳兄弟の間柄であり、前回お話しした‟乳母ネットワーク“で結ばれている人物として当然頼朝の要請に従うものと思われました。しかし、経俊もここで意外な反応を見せます。経俊までも頼朝の要請に応じなかったのです(※1)。
『平家物語』(※2)によると、藤九郎盛長らが頼朝の要請を伝えても、経俊はそれに対し一向に返事をしない上、盛長たちを館の中へも入れずに待たせるなど非礼を重ねました。さらに盛長らがいる前で、
「われらの父・俊通は保元の乱に六条判官(源為義・頼朝の祖父)殿の御供をして戦い、兄・俊綱は平治の乱で義朝殿の味方をして身命を賭して戦われ、結局父も兄も敵に討ち取られてしまった。そしてこの度、兵衛佐殿(頼朝)の御供をしたら、命を失うのであろうなぁ」
という弟・四郎の発言に対し、経俊は、
「お前は物に狂ってはならぬ。人はとてもみすぼらしくなると、するべきではない事もしたり、思うべきではないことも思ったりして、このような事を言うものである。それにしても兵衛佐殿(頼朝)が、よくも今の平家に楯突こうなどと、大それた事を思い起こされたものよ。これでは富士山と背比べするようなもの、猫の額についているエサを鼠が狙うようなものではないか。あぁ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
と声高に言い放って、結局頼朝の要請に返事をしなかったといいます。
このように頼朝の父・義朝とゆかりのある波多野義常ばかりか、頼朝の乳兄弟である山内首藤経俊すらも頼朝に同意せず敵対の姿勢を見せたのです。予想以上に頼朝の挙兵参加呼びかけへの反応は悪い状況でした。そして、盛長と光家は時政が味方にするべきとした人物の一人、三浦義明のもとを訪れます。
三浦義明は関東でも有数の勢力を誇る三浦党の総領であり、ほぼ彼の一存で三浦党の方針が決まりました。つまり、義明の同意がなければ三浦党はみな頼朝挙兵に参加しないのです。
義明が盛長らと会った際の話も『平家物語』(※2に同じ)に載っています。それによれば、義明はこの時ちょうど風邪を引いて寝ていましたが、頼朝の使者が到着したと聞くなり、起き上がって烏帽子をつけ、直垂を着用するなど身なりを整えた上で、盛長らと対面しました。山内首藤経俊とはまったく違う対応です。そして、頼朝からの要請の書状を一読すると、
「故・左馬頭殿(義朝)の子孫は絶えてしまったと思っていたが、この義明が再興の時に出くわすことができるとは。ただ一身の悦びである」
と言うと、三浦党の者たちを集め、
「昔は33年をもって一昔としたが、今は21年をもって一昔とする。21年も過ぎれば、淵は瀬となり、瀬は淵となる。平家はすでに20余年の間天下を治めた。今は末法の世になり、平家の悪行日に日に倍増しておる、まさに滅亡の時が来たと見える。平家滅亡ののちは、再び源家が繁昌する事は疑いない。みなは早く一味同心して、佐殿のもとへ参るのだ。もし佐殿に神仏の加護なく討死するようなことがあれば、みなも一か所に頸をさらせ。山賊や海賊のようなことをしては一族の名折れぞ。逆に佐殿に果報があり、天下を治めようものなら、みなの中で生き残った者がともに繁昌すべし」
と一同に言い聞かせ、これを聞いた者たちも異存なしとして同意。三浦党は全体で頼朝を支持することとなりました。
こうしてなんとか三浦党は味方につけた頼朝でしたが、これで前途が開けたわけではありませんでした。伊豆と三浦では少し距離がある上、間には平家方として看做される大庭景親の勢力圏が挟まっていて、すぐには合流できない地理的状況であったからです。そしてこのことが、挙兵直後の頼朝に苦難を強いることになります。
大庭景親の帰国
三善康信からの連絡から約1か月半が経った治承4年(1180年)8月2日、大番役として都にいた相模国の大庭景親が帰国してきました。
それを受けて、頼朝の周辺ではにわかに騒がしくなり、動きが慌ただしくなりました。なぜなら、景親の帰国によって平家による以仁王の乱の残党征伐がついに始まると見て良い状況になったからです。
景親は当時「東国の御後見(※3)」として平家からの信任を得て、相模国・伊豆国はもとより南関東ににらみを利かせる人物となっており、景親が号令をかければ、平家の威光のもとたちまち南関東の武士たちを招集することができるという立場にいました。
実際、景親は清盛から源仲綱の子たちの追討を命じられていたといいます(※4)が、この追討の命令の対象に頼朝まで含まれていたかは定かではありません。しかし、景親が都を出る間際、平家の侍大将であり、坂東八ヶ国侍別当である藤原忠清(伊藤忠清)から頼朝謀叛の知らせの真偽について尋ねられているため(※5)、頼朝に対する警戒監視も任務のうちに含まれていたのでしょう。
ちなみに、この頼朝謀叛の知らせは駿河国の長田入道からのもので、その内容は北条時政と比企掃部允(※6)が頼朝を旗頭に謀叛を企てているというもの。この情報については、景親が比企掃部允はすでに他界していると忠清に指摘していることから完全に正確なものではありませんでしたが、このような情報が流れてきている以上、平家は景親を帰国させて、東国での不穏の動きをけん制する狙いがあったと思われます。
しかし、この大庭景親の帰国がかえって東国での謀叛の動きを加速させてしまうことになりました。かねてより平家政権下での地方統治に不満を持っていた東国各地の勢力がむざむざ討たれる前に先手を打つべきと動き出したのです。この動きは頼朝だけではなく、頼朝と同じく以仁王の令旨を受け取ったとされる甲斐国の武田氏をはじめとする甲斐源氏や下総国の千葉氏などにも見られ、彼らもこのころより謀叛の動きを活発化させていくことになっていったのです。