【治承~文治の内乱 vol.2】 以仁王の謀叛
治承~文治の内乱の史話、第2回。
今回から何回かにわたって以仁王の乱の経緯をもう少し詳しくお話ししていこうと思います。
以仁王の令旨
『吾妻鏡』『平家物語』によれば安徳天皇が即位した治承 4 年(1180 年)4 月、以仁王は東海道・東山道・北陸道の源氏ならび武士たちに前伊豆守・源仲綱(源頼政嫡子)を宣者として平家追討の“令旨”とされる文書を発給。新宮十郎(河内源氏・源為義の十男、頼朝の叔父)が令旨を東国へ伝える使者となったことが記されています。
この新宮十郎は平治の乱で兄・義朝が敗死したことにより、長らく無位無官で熊野新宮に身を寄せていた人物でしたが、この時、八条院蔵人という役職を得て、行家と改名(もとの諱は義盛)、勇躍以仁王らの企てに参加しました。
なお、この時出された令旨をめぐっては、本来の令旨の形式をなしていないとか『吾妻鏡』や『平家物語』をはじめ諸史料に載る令旨の文言に相違があるといったことからその真偽が議論されてきましたが、『愚管抄(※1)』にも以仁王が諸国の武士に決起を呼び掛けた文(檄文)を多く書いたとあり、この後、以仁王から発給された何らかの宣(命令書)が頼朝や義仲などに渡っていることが窺われることから(※2)、以仁王から東国の武士たちに向けて平家打倒の呼びかけがあったことは確かなようです。
また、一般に令旨とは皇太子と三后(太皇太后・皇太后・皇后)、女院、親王が出す命令書とされており、以仁王は親王宣下を受けておらず王であるため、本来その命令書は“御教書”となるはずですが、以仁王は自らを“最勝親王”と名乗って文書を発給していることからこの命令書が令旨とされたのだと思われます。
謀叛の発覚
治承 4 年(1180 年)5 月 15 日(『吾妻鏡』)。以仁王の三条高倉にある御所を突如、検非違使の手勢が取り囲みました。以仁王の平家に対する謀叛が発覚してしまったのです(※3)。
朝廷は直ちに以仁王を源以光として臣籍降下(皇籍から離れること、つまり皇族ではなくなること)させた上で土佐国への配流を決定、検非違使を以仁王の御所へ派遣しました。
検非違使尉である源光長は門前にて以仁王の出頭を要請するものの、門内からは全く応答がなかったため、光長の手勢は門を打ち破り、強硬な手段で御所内を捜索し始めるという挙に出ました。しかし、王は不在。すでに御所を抜け出して逃亡したあとでした。
以仁王が事前に検非違使らの捜索を察知することができたのは、源頼政の養子である源兼綱が検非違使少尉を務めており、そこから情報を得たものと思われます。
以仁王は夜陰に紛れて東へ向かい、如意ヶ岳(如意山)を越えて園城寺へ向かいました。
『延慶本平家物語』にはこの時の以仁王の様子について、夜陰に紛れて夜露に濡れた草木をかき分けながら山を登り、普段歩き慣れていないために疲れて弱り、山道に生える荊のトゲで白い美しい足は赤く染まり、黒いきれいな髪はクモの糸がまとわりついていたと記述していて、いかにも過酷な逃避行であった様子が描かれています。
やがて以仁王は園城寺に到着し、寺の衆徒たちに難なく迎え入れられ保護されました。園城寺では僧坊(僧たちの住まい)の一つであった法輪院を仮御所として以仁王に提供するとともに、平家の追跡に備えて寺の防備を急いで強化しました(※4)。
なお、以仁王はこの園城寺の衆徒たちばかりでなく、南都の興福寺の衆徒や延暦寺の一部悪僧らからも支持されていました。
これは園城寺・興福寺・延暦寺といった有力寺院に清盛への強い反発心があったことを示していて、これらの具体的な背景として、園城寺にとっては、長年帰依してくれていた後白河院が治承三年の政変で幽閉され、後白河院の王権が清盛によって破壊されたことに対する反発があり、興福寺にとっては、藤原氏の氏寺として、氏長者(藤氏長者)であった藤原基房(松殿基房)が治承三年の政変で配流されてしまったことに対しての憤慨があり、また、治承4年3月に従来の慣習を破るかたちで、前月退位した高倉上皇が安芸の厳島神社に参詣した際は、園城寺の衆徒が興福寺や延暦寺の悪僧にも呼びかけて、高倉や後白河を平家から奪取しようと動くなど、清盛が当時の宗教界の秩序を乱していることに対する怒りがありました(※5)。
さて、平家は以仁王の御子で八条院のもとで養育されていた若宮も捕らえるため、平頼盛とその手勢を八条院の御所に派遣しました。
頼盛らは八条院の御所をくまなく捜索して若宮を捕らえ、若宮を出家させました。この若宮はのちに道尊という法名を名乗る高僧になります(※6)。
ところで、このように八条院が御所に在している状況で、平家が御所内を捜索するという挙に出たのは、以仁王が八条院の猶子であり、令旨を東国へ伝える源行家が八条院蔵人に補任されていたことなどから、八条院の御所がこの謀叛を企んだ者たちの拠点であり、八条院自身も謀叛に加担していることも視野に入れての処置だったと見ることができます。
しかし、その一方で八条院御所を捜索した平頼盛はかねてより八条院と親交の深い間柄だった人物で、さらに頼盛の妻は八条院に仕える女房だったことから、そのような頼盛を派遣したことは八条院に対する一定の配慮があったことが察せられます。
令旨の伝達
『吾妻鏡』には、令旨が行家によって頼朝のもとへ伝えられたのが 4 月 27 日、続く 5 月 10 日には下総国下河辺庄の庄官であった下河辺行平から頼朝に摂津源氏の源頼政が以仁王に同調して謀叛の用意があることを伝えられたと記されています。
この下河辺庄は八条院領の一つでした。つまり、以仁王の令旨や意向は行家の他に各地に多く存在する八条院領を通じて伝達されたこともうかがえ、直接八条院が謀叛に関わっていなかったにせよ、八条院周辺や八条院が有するネットワークを通じて謀叛の企てが進行していたと見ることができます。
ちなみに、以仁王方についた武士に源義賢(帯刀先生)の子である源仲家(源〈木曾〉義仲の兄)がいますが、彼も源頼政の猶子であるとともに、八条院の蔵人であったことがわかっています(※7)。