【治承~文治の内乱 vol.21】 頼朝と梶原景時
敗走する頼朝勢
頼朝に従った他の武士たちも箱根の山中を彷徨って散り散りになり、相模国はもとより、伊豆国へ戻る者、駿河国、甲斐国、武蔵国などの近隣の諸国へと落ち延びていく者やあえなく命を落としてしまう者など様々でした。
敗走中に命を落とした者では、北条時政の嫡子である宗時がいました。宗時は時政・義時(宗時の弟)らと別行動をとって土肥山から桒原へ下り、平井郷を経由したのち、早川の河口あたりで伊東祐親の軍勢と遭遇して、伊豆国平井郷の名主・紀六久重に討ち取られ、あえない最期を遂げたといいます。
その他、伊豆国の有力豪族であった工藤茂光が、その肥えた体型のために思うように急峻な山を越えることができずに大庭勢に追いつめられて自害し、伊豆国の武士である沢六郎宗家もこの時討死したといいます。
他方、戦いから逃れた者としては、加藤景員、光員、景廉の父子がいました。
彼ら3人は24日以降、3日にわたって箱根の山中を彷徨っていたため、食料も気力も尽き果てて呆然とするばかりの状況に陥っていました。そんな中、老齢であった景員がとうとう動けなくなってしまいました。景員は二人の息子に、自分をこの山に置いてそれぞれ落ち延びるように言いましたが、光員・景廉兄弟はそれを良しとせず、父を走湯山(伊豆山権現)まで送ってそこに保護を求めました。そして兄弟は甲斐国へと赴いたといいます。
途中の伊豆国府では地元の民に追われ、兄弟はぐれてしまうというアクシデントに見舞われたものの、駿河国大岡牧で再会し、甲斐へ向かったと『吾妻鏡』は記しています。
この加藤兄弟のように、敗走した頼朝方の者で甲斐国へ向かった者が他にもいました。北条時政・義時親子、土屋宗遠らがそれです。
『平家物語』や『吾妻鏡』によれば、北条父子も宗遠も甲斐源氏にこの度の石橋山での戦を伝えるために甲斐へ赴いたとしています。
(この話については「富士川の戦い」の話の際にまた改めてしたいと思います)
一方、肝心の頼朝は土肥実平をはじめとする付近の地理に明るい地元の武士数騎で箱根山中を彷徨っていましたが、いよいよ逃げ切ることが難しくなっていました。
『吾妻鏡』は洞窟に潜む頼朝が髷の中に入れていた正観音像をおもむろに取り出し、そのままその像を洞窟へ置いていったという逸話を記しています。
この正観音像は、かつて頼朝の無事を祈念するために清水寺に参籠していた乳母が霊夢によって手に入れた像で、まさしく頼朝の守護仏と言えるものでしたが、最期まで仏にすがっていたと敵に覚られるのを恥じて手放したといいます。頼朝はこの時、もはや逃げ切れないと最期を覚ったのでしょう。そこまで追いつめられた状況だったのです。
しかし、歴史は頼朝がここで討たれることを許しませんでした。頼朝は思わぬ助けを得たのです。まず一つは、敵将であった梶原景時の見逃しです。『吾妻鏡』では景時が頼朝の確かな居場所を知っていたにもかかわらず、大庭の軍勢を別の山へ誘導したと簡単に記すだけですが、『平家物語』では大きな洞の中で景時と頼朝とが目を合わし、緊迫した状況の中で景時は翻意し、機転を利かして頼朝の危機を救った様子を劇的に描いて、石橋山の戦いでの名場面の一つとしています。
(↓次節でお話ししています)
そしてもう一つの助けは箱根権現の援助です。箱根権現の別当(トップ)である行実は敗走しているであろう頼朝の身を案じて、弟の永実に頼朝を探させました。
そして、なんとか頼朝を探し当てた永実は用意してあった弁当を差し入れました。しばらく飲まず食わずで逃亡していた頼朝たちにとっては、まさに天佑神助。この窮地を脱して頼朝が世に立ったなら、永実を箱根権現の別当にという土肥実平の提案に頼朝は大きくうなずいて喜びもひとしおであったといいます。
その後、頼朝たち一行は永実の案内で密かに箱根権現へと身を寄せ、一時の休息を得ました。
ちなみに、ここまでして箱根権現の別当・行実やその弟・永実が頼朝の保護に尽力したのは、かつて彼らの父である良尋が頼朝の祖父・為義や父・義朝と親交があり、行実が父の跡を継いで箱根権現の別当になる際には、為義も義朝も関東の家人たちに対して、箱根権現を守護するように指示を出したという深い関係があったからだと『吾妻鏡』は説明しています。
頼朝と梶原景時
先ほどもお話ししましたが、『平家物語』には箱根山中を彷徨う頼朝と落ち武者狩りを行う梶原景時との有名なエピソードが記されています。今回は「長門本」を参考にして、その場面を紹介したいと思います。
石橋山の戦いで壊滅的な敗北を喫してしまった頼朝。彼は大庭方の落ち武者狩りから逃れるため、地元の武士である土肥実平や岡崎義実らとともにわずか7騎で箱根の山中を逃げ回っていました。
「敵がかなり間近に迫っていると聞く。この場を去って逃げたとしても、敵もよくこの山を知っているだろうから、我々と遭遇する可能性が高いと思われる。さりながら、ここならば敵をやり過ごすこともできよう」
頼朝たちは中が大きな空洞となっている倒木を見つけ、そこにしばらく隠れることにしました。ところが、しばらくして大庭景親らが頼朝たちの足跡を追って、この倒木の傍までやってきてしまいました。
「足跡はここまで来ているが、その先は消えてしまっている。わからん。どうなっているのだ」
景親はそう言うと、従者たちとともに辺りを散策し始めた。
「不思議なこともあるものだ。確かにここまで六七人ほどの人の足跡があるものを。いったいどこへ落ち延びたというのだ」
あちこち捜すものの見つかりません。景親は少し苛立った様子で、すぐそばにあった倒木を鞭で叩きました。すると、この倒木の中が空洞になっていることに気がついたのです。
「これはいかがしたものか。この倒木は幹が太い。この中に人が籠もったなら10人、20人は入れるぞ。もしやこの中にいるのかもしれぬ。入って捜してみよ」
景親に従っていた大庭の平三景時(梶原景時)はそれを聞いて、倒木の傍へやってくると、ぽっかり丸く開いた穴を見つけました。景親の言うとおり、確かに中に人が入れる大きさの穴です。そして早速穴の中を覗いて見れば、そこには武士が六七人潜んでいたのです。
景時は頼朝とキラリと目があいました。すでに頼朝は覚悟を決めているようでした。そこで景時は、
「ああ、なんとも心苦しいものだ。言ってみればこの方は譜代相伝(先祖代々)の主君ではないか。一旦の恩によって平家に従って弓を引き立ち向かいはしたものの、なんと情けないことかな。ここでこの方と勝負してどうしようというのだ。不甲斐なくここで討ち取らせていただくことはなんとも心苦しい」
と思い、頼朝が生き長らえたなら、このことを覚えていて自分の名前を知っていてもらおうと、
「この中に誰かいるものかのぅ。とはいえ念のため出入りして探してみよう」
と、倒木の中に入ってあちこちを弓で叩きました。他の大庭方の者たちも倒木の中へ入ろうとしますが、景時が穴の入り口に立ちふさがっているため入ることができません。
頼朝たちはこの様子に、もはやこれまでとそれぞれが腰刀を抜いて自害をしようとしました。すると景時は小声で、
「ああ、おやめください。この景時がここにいる限り何事も起こらないでしょう。御自害など思いも寄らぬことです」
と言うと、やがて穴から外へ這い出て、
「ああ、珍しい倒木よ。この景時に骨を折らせおって。時間があれば焼き払うものを。覚えておけよ」
と、倒木を荒々しく鞭で叩きました。頼朝は景時が自分に心を寄せる者であることを感じ取り、その志に感謝するとともに、
「八幡大菩薩、どうか助けたまへ」
と祈りの言葉を述べると、突如、穴から3匹のウサギが飛び出し、大庭景親の前を通り過ぎていきました。
「これは珍しいウサギである。これ者ども」
と、景親が言うと、人々も兎に気を取られてそれを追いかけはじめました。そして、景親ともどもウサギを追いかけて街道のほうまで行ってしまいました。
頼朝は敵が去ったあと、
「なんとも不思議なこともあるものだ。八幡大菩薩は本当にこの頼朝をお守りくださった。八幡大菩薩(八幡神)の本来のお姿は阿弥陀如来という。そしてその阿弥陀如来は観音菩薩と勢至菩薩を脇に置いておられる。月は勢至菩薩を意味する。今にこの国が知ることになるであろう因縁(頼朝が平家を倒すこと)は疑いないだろう」
と、八幡神の霊験を大いに感じたということです。
この頼朝と梶原景時の関係については、興味深い指摘がなされています。詳しくはまた改めてお話ししたいと思いますが、後白河院の姉である統子内親王(のちの上西門院)が保元3年(1158年)に後白河院の准母として立后されると、頼朝はその皇后宮権少進に任じられました。その時、上司にあたる皇后宮権大夫だったのが徳大寺実定という人物で、その徳大寺実定に伺候していたのが梶原景時ということで、後白河院 ー 統子内親王(上西門院) ー 源頼朝 ー 徳大寺実定 ー 梶原景時というラインが浮かび上がるというものです。
つまり、頼朝が都にいた頃(平治の乱前)から景時とは面識があった可能性があるのです。この『平家物語』にあるエピソードにはこういった背後関係が影響していたのかもしれません。