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【鎌倉党 vol.3】 大庭御厨乱入事件

大庭御厨と伊勢神宮

今回は大庭御厨最大の危機と言ってもいい、大庭御厨乱入事件の話ですが、事件の話をする前に、まず大庭御厨と伊勢神宮の関係についてお話します。

大庭御厨は伊勢神宮(内宮)の庄園です。御厨みくりやというのは天皇家・伊勢神宮・上下賀茂社や摂関家などに、お供え物や食料として魚介類その他諸々を貢物として奉るための所領です。つまり、大庭御厨は伊勢神宮(内宮)へその貢物を奉っていたということになります。

伊勢神宮(内宮)は大庭御厨から貢納物を徴収するためにどのようにしていたのか、ちょっと図にしてみました。

まず、大庭御厨には下司げしと呼ばれる実際に耕作したり漁をする人々に指示したり、それを監督したりする人がいます。この下司と呼ばれる人はそもそもこの庄園を開発した人がなることが多く、いわゆる開発領主という人が務めます。

大庭御厨の場合、これを開発したのは鎌倉景政かまくらかげまさですから、鎌倉氏がこの下司になるはずなんですが、この大庭御厨の事件が起こった頃は景政の子孫である大庭景宗おおばかげむね(景親の父親)が下司を務めていました。

そして、大庭御厨にはもう一人、給主きゅうしゅと呼ばれる御厨を運営する人物がいました。それが伊勢神宮から派遣されてきた荒木田彦松あらきだひこまつという人です。給主というのは上級領主(この場合は伊勢神宮)に貢納物を送ったり、連絡をしたり、上級領主からの指示を聞く役割も果たしました。

この彦松についてはまた後ほどお話ししますが、彼は先ほどの下司よりも立場は上です。大庭景宗が現場監督だとすると、彦松は事業所の所長のようなものでしょうか。また、彼は神職でもあり、大庭御厨内の鵠沼くげぬま郷にあった伊介いけ神社(鵠沼皇太神宮の前身)のほうり(神職の名称の一つ)も務めていました。

続いて、伊勢神宮の方はというと、伊勢神宮のトップは祭主さいしゅと呼ばれる人、そしてそれを補佐する役割の大宮司だい-ぐうじ権大宮司ごんのだいぐうじ少宮司しょうぐうじと呼ばれる人たちがいます。この方たちがいわば伊勢神宮の首脳陣です。大宮司・権大宮司・小宮司は宮司庁ぐうじちょうという組織を形作って、下部組織に指令を伝達しました。ちなみに、この祭主・大宮司・権大宮司・少宮司は大中臣おおなかとみ一族が独占しています。

そして、その宮司庁の下部組織が禰宜ねぎ権禰宜ごんねぎと呼ばれる人たちで構成される大神宮庁だいじんぐうちょうです。禰宜・権禰宜は内宮(天照大神アマテラスオオミカミを祀る皇太神宮)と外宮(豊受大御神トヨウケノオオミカミを祀る豊受大神宮)にそれぞれ別れ、内宮の禰宜・権禰宜は荒木田あらきだ氏が、外宮の禰宜・権禰宜は度会わたらい氏が務めてきました。禰宜・権禰宜の定員は時代によって変わりますが、この頃は内宮・外宮ともに禰宜が6人ずつ、権禰宜は内宮が34人、外宮に28人いたそうです(※1)。

なお、禰宜・権禰宜は全国各地に散らばる御厨などの運営を担っていました。つまり、大庭御厨の荒木田彦松は、この大神宮庁(内宮)に属する人物だったと言えます。

以上が伊勢神宮の組織になりますが、実はもう少し組織が複雑でして、今お話しした組織の他に宮司庁の下部組織にあたる伊勢国内の伊勢神宮所領を統治する役所や祭主直属となる検非違使のような警察組織なども存在しますが、今回の事件では直接関係がないので省略します。

ということで。
ようやく本編、事件のお話をしてみたいと思います。


大庭御厨乱入事件

この事件の発端は、鎌倉に居住する源義朝みなもとのよしとも(頼朝の父)が相模国田所目代たどころもくだい(※2)の源頼清みなもとのよりきよと結託して、大庭御厨内の鵠沼郷くげぬまごうが鎌倉郡に属する公領(国の土地)だと主張したことによります。

天養てんよう1年(1144年)9月8日。

源義朝の名代(代理)の清原安行きよはらのやすゆきと郎等である新藤太しんとうた、相模国の在庁官人じちょうかんじん(国衙の役人)が鵠沼郷に乱入、伊勢神宮へ納める予定の魚を奪い取り、

「鵠沼郷が鎌倉郡内であることは庁宣ちょうせん(※3)に明らかである。明日また指示を出す」

と述べて、一旦引き上げていき、翌日運搬用の馬8頭を引き連れてきて、鵠沼郷内の大豆や小豆を刈り取ったのです。

実はこのような事態に至る前に、鵠沼郷には義朝方の者がやってきて、鵠沼郷は鎌倉郡内であることを主張して帰っていったことがあり、その時御厨側は、大庭御厨はすべて高座郡こうざぐん内であるから到底受け入れられるものではないと、特に取り合わなかったのですが、今回のこの乱入騒ぎで義朝方がついに実力行使に及んできたということで、御厨側としていよいよ見過ごすことができない事態となったのです。

この事態に給主である荒木田彦松は、

「鵠沼郷が鎌倉郡内でないことは先刻申し上げたはず!勅免ちょくめん(天皇の許し)を得た荘園に何か指図することがある場合は、まず宣旨が下され、本家(伊勢神宮)に通達して、本家の使者とともに行うのが通例である。ところが今、庁宣ありと称して狼藉いたすということは、留守所るすどころ(※4)の命令によるものなのか!そもそもその庁宣が本物なのか信じ難い!」

と義朝方に抗議しますが、義朝方はその抗議を受け入れる様子はなく、そればかりか9月9日から10日に日付が変わろうとするの刻(23時~1時)に清原安行や在庁官人らは軍勢を率いて再び鵠沼郷に乱入。

郷内の住人を捕らえるなどの乱暴を働き、子細を聞くために出向いた彦松の頭を問答無用でかち割って瀕死の重傷を負わせ、さらに鵠沼郷を訪れていた神人じにん(神社関係者)8人にも怪我を負わせ、伊勢神宮に上納するために保管しておいた魚介類をことごとく踏みにじって穢す行為にも及んだのです。

この鵠沼郷は大庭御厨の中でもかなり重要な郷であったらしく、彦松がほうりを務める伊介いけ神社があり、その神社を中心に交通網が張り巡らされて、御厨内で収穫、漁獲された物資の集積地、または伊勢神宮への物資発送拠点としての機能も持った郷でした。

それだけにこの鵠沼郷が国衙に収公しゅこう(没収)されることは、御厨を運営していくこと自体が難しくなってしまうのです(だからこそ国衙と義朝はこの郷を狙ったとも言えます)。

また、国衙側は大庭御厨の香川郷かがわごう殿原郷とのはら/とのばらごうの住人に対しても国役くにやく(※5)を課してきました。これは両郷も国衙領であるとみなしての要求でした。

もちろん両郷とも大庭御厨内の郷ですので国役は免除されているはずで、普通なら国衙の要求に従う理由はありません。

9月10日。大庭御厨の伊勢恒吉いせつねよしは直ちに解状げじょう(上申書)をしたためて、伊勢神宮の大神宮庁へ送付。ついで9月29日に大神宮庁は上部組織である宮司庁へ解状を送付して、宮司庁は10月4日、祭主・大中臣清親おおなかとみのきよちかの名前で朝廷(太政官だいじょうかん)へと事の次第を奏上するとともに、直ちに源義朝・源頼清らの乱暴狼藉を止めて、御厨を保全する宣旨を賜るように訴え出ました。

しかし、義朝や相模国目代の源頼清はほとんど間を置かず、次の手を打ってきました。

天養1年(1144年)10月21日、国衙側は大庭御厨に再び乱入(第二次乱入)。

しかも、この乱入は前回を上回る大規模なもので、相模国田所たどころ目代・源頼清と義朝の名代・清原安行に加えて、有力な在庁官人であった和田助弘わだすけひろ(※6)、東相模で武士団・三浦党も統率する三浦義明みうらよしあき、西相模で武士団・中村党も率いる中村宗平なかむらむねひらの軍勢も合わせた1000余騎もの軍勢で押し寄せ、鵠沼郷ばかりでなく、御厨内の各郷にも乱入しました。そして、主張の方もさらにエスカレートしていて、大庭御厨自体の停廃ちょうはい(停止と廃止)を要求してきたのです。もう完全に御厨を潰す勢いであったことは言うまでもありません。

この乱入に際して、大庭御厨の伊勢恒吉は国衙側が持っているという宣旨の内容を確認しました。

その宣旨には、御厨には立ち入ってはならないこと、官省符かんしょうふ(太政官もしくは民部みんぶ省の認可)を得ていない新しく立てられた荘園やこの荘園の土地の他に後から開墾された土地(加納かのう一色別符いっしきべっぷとか)は課税の対象として国衙側の勘定に算入して良いこと、また隣国との境や有力貴族・有力寺社の所領に悪僧が侵入してはならないことが書かれていました。

つまり、その宣旨は大庭御厨へ乱入することの正当性を全く認めていないもので、なんら関係ないものだったのです。

御厨側はこの宣旨の内容をもとに国衙側に反論しますが、国衙側にとってはそんなことはどうでもいいと言うかのように乱暴狼藉を全く止めることはなく、翌10月22日には大庭御厨の四方の境界を定める標識(四至の牓示ししのぼうじ)を抜き取って御厨を停廃(廃止)する動きに出て、大庭御厨下司の大庭景宗の私有財産を強奪。さらに御厨の水田95町(町歩)(約1.1k㎡、1,128,600㎡)の穎稲えいとう(穂先のついた脱穀前の稲)47750束を刈り取り、また御厨を訪れていた熊野神社の神人らを巻きにした上に激しい暴行を加えて半死半生の状態もしくは死亡させ、大庭御厨に保管されていた熊野神社へ納入される予定だった800余石の米も保管を請け負っていた住人が逃亡したため行方知れずとなってしまいました。

ところで、なぜ熊野神社の神人が伊勢神宮の御厨である大庭御厨を訪れていたのか、また、なぜ熊野神社行きの米が大庭御厨に保管されていたのでしょうか。

これについて伊藤一美先生は伊勢神宮と熊野三山(熊野本宮大社〔本宮〕、熊野速玉はやたま大社〔新宮〕、熊野那智なち大社〔那智〕)は古くから繋がりがあって深い関係にあり、熊野神社は大庭御厨を輸送の中継地として一時保管場所として利用、この800余石の米はおそらく熊野の所領であった上総国畔蒜あびる郡畔蒜庄、下総国匝瑳そうさ郡の匝瑳南庄あたりからのものであろうと指摘されています(※7)。

さて、この2回目の乱入事件の伊勢神宮禰宜ら大神宮庁への解状は、大庭御厨の伊勢恒吉から、下司・大庭景宗と藤原重親しげちか(※8)の両名から事情を聞いたこととして、天養2年(1145年)2月7日付で送付されています。

伊勢神宮禰宜ら(大神宮庁)への報告が事件発生から4か月経ったあとになされている理由はよくわかりませんが、大庭御厨の伊勢恒吉が1回目の事件のあと、相模守で鳥羽院の近臣であった藤原頼憲よりのりにも問い合わせをして、その回答を待っていたためと思われ、結局相模守からは義朝の乱暴を止めることはできず、御厨を停廃(廃止)することについても、在国(相模国)の官人(役人)らに問い合わせてしかるべき処置をすると返事があっただけで、その後あれやこれや理由をつけては一向に処置がなされることなく、空しく時間が経ってしまったようです。

この待っている間にも、香川郷・殿原郷の両郷に国衙から国役が課されるなどしていたようで、下司の大庭景宗はこのせいでわずかに留まり残っていた住人まで逃亡してしまったと報告しています。

伊勢恒吉らの解状を受け取った大神宮庁は2月12日に宮司庁へ解状を送付、宮司庁も祭主・大中臣清親の名前で同日に朝廷(太政官)へ奏上。再び源義朝・源頼清の乱暴狼藉の即時停止と大庭御厨の保全を訴えました。

ちなみに、この時すでに祭主・宮司庁のもとへは1回目の乱入事件に関しての源義朝らの乱暴狼藉を止める官宣旨が届いていました。しかし、事がエスカレートしていることもあって再度朝廷(太政官)へ奏上したようです。

一方、朝廷の方も1回目の乱入事件の処置を命ずる官宣旨を出すのに4か月もかかったのに対し、今回2回目の乱入事件に関しての官宣旨を出したのは奏上から約1ヶ月後の3月4日。朝廷の方もこの事態を重く見たようです。

ただ、この3月4日付の官宣旨には源義朝・頼清らの妨害の停止大庭御厨の存立を認めるとはありましたが、香川郷・殿原郷に課されている国役については、国司に朝廷へ子細を弁ずるようにさせよとあるだけで、国役免除などの直接的な言及はありませんでした。

残念ながら、この大庭御厨乱入事件の詳細が史料(『天養記てんようき』)によってわかるのはここまで。一応、3月4日付の官宣旨で大庭御厨側の言い分が認められたことはわかりますが、最終的にどういう形で決着したのかはわかりません。

この事件から12年後の保元ほうげん1年(1156年)、崇徳上皇の白河殿を攻撃する源義朝の軍勢の中に、大庭景宗の跡を継いだ大庭景親おおばかげちか大庭景義おおばかげよし兄弟の姿がありました。これをどう見るか意見の分かれるところであろうかと思いますが、この大庭御厨の乱入事件を契機として、御厨下司の大庭氏は義朝に服属することを余儀なくされたとする見方が大勢を占めているようです。

おわりに

大庭御厨の事件の話はここまでです。
この大庭御厨の事件はこの時代の世相を反映する事件として、またこの後に起こる治承・寿永の乱の伏線としても重要視されている事件です。

もうお気づきかもしれませんが、頼朝が挙兵した際、頼朝には三浦党と中村党が味方し、それに敵対したのが大庭景親を中心とする鎌倉党でした。もちろんこの事件が敵対の直接的な理由ではないんですが、因果関係はうっすらと見えているような気がいたします。

ってことで、最後に2つほど付け足し。

まず大庭御厨の給主について。

今回の話で、伊介いけ神社のほうり・荒木田彦松、伊勢恒吉と二人の人物が登場したんですが、これ実は同一人物なのではないかと指摘されています(伊藤一美先生による)。

伊藤先生もおっしゃっているように、もちろん大庭御厨に伊勢神宮から複数の人物が派遣されてきていたことも考えなければいけませんが、大庭御厨の立庄(庄園を開くこと)の経緯や歴代の国司とのやり取り、庄園に関する様々な手続きなどを熟知しており、それをもとにして国衙側と渡り合っているのはこの両名だけです。そこで、伊勢恒吉は荒木田彦松の仮名けみょうではないかというのです。

では、なぜわざわざ仮名を使ったのか。

これについて、彦松が1回目の乱入事件で瀕死の重傷を負ったことになっており、それ以後の伊勢神宮への報告は伊勢恒吉からとなっています。つまり、簡単に言えば、彦松は実のところ瀕死の重傷は負っていないものの、自身も被害を受けたことは事実で、それを大きく誇張する(話を盛る)ために、わざと第三者・伊勢恒吉という者を登場させて証言させる形にすることで、その説得性を高めたというのです。

日本中世では自分の証言よりも自分の周囲の第三者の証言の方が信用されるという面を持っていましたし、他の伊勢神宮の所領(伊勢国度会わたらい郡大橋御園みその)で鎌倉時代初期に乱暴狼藉行為が起こったことがあり、その当時、御園司みそのつかさであった行恵ぎょうけいという人物は仮名を使って乱暴狼藉行為を止める訴えの申し状を出していることが知られているそうです。
(この行恵は多米正富ためのまさとみというのが仮名で、本名は平忠正(清盛の叔父とは別人)というそうです。ん?名前が3つ…?)


次に、もう一つあったかもしれない荒木田彦松の名前について。

朝廷(太政官)から伊勢神宮祭主へ出された「官宣旨」の内容を下達するためには、まず宮司庁が司符しふという文書を出して大神宮庁に伝え、それを受けた大神宮庁は大神宮庁宣庁宣ちょうせん)という文書を出して、大庭御厨に関係していると思われる権禰宜に伝えます。

本来ならその大神宮庁宣の宛先は、大庭御厨の荒木田彦松または伊勢恒吉となるはずなんですが、『天養記』に残る大神宮庁宣の宛先は”権禰宜師光”となっています。権禰宜は最初の方にお話ししたように御厨の管理・運営を取り仕切る立場の人ですので、この「師光」という名は、もしかすると荒木田彦松のいみなだったのかもしれません。
(荒木田彦松≒伊勢恒吉≒権禰宜師光?やっぱ名前が3つ…?)


註)
※1・・・伊藤一美 『大庭御厨に生きる人々』藤沢市史ブックレット6 藤沢市文書館 2015年 p.31
※2・・・・田所は11世紀に新設された国衙機構で、田地に関する文書や帳簿を取り扱い、その他雑務を行う部署です。ところの目代の一つ。
※3・・・この場合の庁宣は遥任ようにん国司(任国に赴かない国守)が現地の代官(目代など)に発給した命令書
※4・・・留守所は国衙内に設置され、遥任国司が派遣する代官(目代など)が執務する行政機関
※5・・・国役について一概に言えませんが、所定の物品(絹・紙・糸など)を国へ納める場合や臨時雑役(労役)を勤める場合など様々な負担がありました。
※6・・・和田助弘は「和田」を名乗っていることから、三浦一族である和田義盛の父である杉本義宗の舅であったとする説がありますが、近年では相模国には他にも「和田」の地名(大住郡和太郷や高座郡和田郷など)があり、おそらく三浦氏とは関係のない和田氏であるとも考えられています(高橋秀樹『三浦一族の中世』吉川弘文館 2015年)
※7・・・伊藤一美 前掲同書 p.71
※8・・・藤原重親は井濱御厨いはまみくりや(※)の検校けんぎょう(※)で、1回目の乱入事件を受けて御厨定使みくりやじょうづかいとして大庭御厨に派遣されてきていました。御厨定使の「定使」というのは、荘園の管理・経営にあたる庄官の一つで、庄園を実質支配する領家りょうけあるいは預所あずかりどころなどの命を受けて、現地で在荘の下司・公文くもんなどを指揮して荘務にあたった中間的な庄園管理者です。(ややこしいですよね…)
 ※井濱御厨…伊勢国にあった伊勢神宮領
 ※検校…庄官として在地の最高責任者

(参考)
野口実 『坂東武士団と鎌倉』中世武士選書15 戎光祥出版 2013年
湯山学 『相模武士 第1巻 鎌倉党』 戎光祥出版 2010年
伊藤一美 『大庭御厨に生きる人々』藤沢市史ブックレット6 藤沢市文書館 2015年
伊藤一美 「神宮文庫所蔵『天養記』所収文書の基礎的解説(1)~(3)」(『藤沢市文化財調査報告書』(第四一集~第四三集)所収) 藤沢市教育委員会 2006年(第四一集)・2007年(第四二集・第四三集)
関幸彦・野口実編 『吾妻鏡必携』 第二刷 吉川弘文館 2009年
神奈川県企画調査部県史編集室編『神奈川県史 資料編 古代・中世1』 神奈川県 1970年

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